西進、1850年–1860年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 23:14 UTC 版)
「氷貿易」の記事における「西進、1850年–1860年」の解説
1850年代は氷貿易の過渡期であった。産業としてはすでに巨大な規模になっていた。1855年にはアメリカ国内で600万から700万ドル(2010年の1億1,800万ドルから1億3,800万ドルに相当)の投資が行われ、全米の倉庫には常に200万ショートトンの氷が収蔵されていたと推計されている。しかしその後の10年間で、産業としての氷貿易は国際的な輸出市場への依存からの脱却が進み、成長するアメリカ東部の諸都市、次いで急速に拡大する西部地域への氷の供給がその成長の柱となった。 1850年、カリフォルニアはゴールドラッシュの最盛期であった。これによって生じた贅沢品への需要に支えられて、ニューイングランドの各社は帆船によりカリフォルニア州のサンフランシスコとサクラメントへ初めて氷と冷蔵されたリンゴの出荷を行った。市場の存在は確認できたものの、ホーン岬を経由するルートの出荷は経費がかさむうえに、需要を満たすほどの供給も難しかった。そのため1851年には、ロシア領だったアラスカに1ショートトンあたり75ドルで氷が発注されるようになった。その後1853年にはサンフランシスコでアメリカン-ロシアン・コマーシャル・カンパニーが設立され、ロシアン-アメリカン・カンパニー・オブ・アラスカとパートナーシップを結んで、アメリカ西海岸に氷の供給を行った。ロシア人の会社はアラスカで氷の収穫を行うためにアレウト族住民を組織し、断熱材となるおがくずを生産するための製材所を建設するとともに、氷とそれで冷蔵した魚とを南に向けて出荷した。事業コストは依然として高かったが、M・トールマンという男性がネヴァダ・アイス・カンパニーを設立して新規参入し、パイロット川から収穫した氷をサクラメントに輸送したため、西海岸での氷の価格は1ポンドあたり7セント(2010年の2ドル)にまで下落した。 アメリカは西部に拡大を続け、オハイオ州ではハイラム・ジョイという男がシカゴに近いクリスタルレイクを開拓した。クリスタルレイクからシカゴまではシカゴ・セントポール・アンド・フォンデュラク鉄道によって結ばれた。氷は、市場まで商品を運搬するために利用された。シンシナティとシカゴでは、氷が夏季に豚肉を加工する作業を容易にするために使われ始めた。ジョン・L・スクーリーが最初に冷蔵の加工室を開発したとされている。果物もイリノイ州の中心部の氷室で保存されるようになり、収穫とは別の季節に消費することが可能になった。1860年代には、氷のおかげで、当時急速に人気になりつつあったラガービールの醸造が一年を通じて行われていた。鉄道網がより優れたものになるにつれて、氷の取引は地域をまたぎ、さらには東部へと拡大することになった。 一方で、1748年には機械設備によって水を人工的に冷却することが可能だったことが知られており、1850年代の後半から人工氷を商業的な規模で生産する実験も行われていた。そのために様々な手法が開発されたが、1834年に発明されたジェイコブ・パーキンスのエチルエーテルを用いた蒸気圧縮型の冷却機関などが有名である。ほかにもジョン・ゴーリエによる空気を冷媒として循環させる機関や、フェルディナン・カレーとシャルル・テリエの名が筆頭に挙がる、アンモニアを冷媒に利用したアプローチなどが知られている。これらの装置によって作り出された製品は、機械製氷や人工氷など様々に呼ばれたが、いずれにせよそれを商業的な規模で製造するためには多くの困難が残っていた。人工氷を生産するためには燃料として大量の石炭が必要であり、機械への投資も必要だった。そのため市場で受け入れられるだけの価格で氷を製造することは容易ではなかった。始めは技術的にも信用が薄く、何十年もの間、製氷機は爆発の危険とも隣り合わせであり、ひいては周辺の建物にも被害が及ぶ可能性があった。アンモニアを利用した製氷機は機械のジョイント部分から漏出したアンモニアが、そのまま氷に残存する危険性も残っていた。19世紀のほぼ全体を通じて、人工氷は天然氷ほど透明にはならず、溶けると白いかすが出ることもあったため、天然の氷とは違って人間が体内に取り入れるのは避けるべきだと考えられていた。 それでも1850年代にはアレクサンダー・トワイニングとジェームス・ハリソンはそれぞれオハイオとメルボルンにパーキンスのエンジンを利用して製氷機をつくりあげた。トワイニングは自分の機械では天然氷に対抗できないことを悟ったが、メルボルンのハリソンが作り出した製氷機はやがて市場から圧倒的な支持を得るようになった。オーストラリアからニューイングランドまでの距離は、旅路に換算して115日はかかるため、400ショートトンの氷を積んで出発した船がシドニーに着くころには氷は150ショートトンにまで溶けて減ってしまうこともあった。この歩留まりの悪さゆえに、オーストラリアでは人工氷が天然氷に勝つのは比較的容易だったのである。とはいえこの時代は世界全体で見た場合、市場において支配的なのは天然氷であった。
※この「西進、1850年–1860年」の解説は、「氷貿易」の解説の一部です。
「西進、1850年–1860年」を含む「氷貿易」の記事については、「氷貿易」の概要を参照ください。
- 西進、1850年–1860年のページへのリンク