西軍決起と大坂城入城とは? わかりやすく解説

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西軍決起と大坂城入城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 21:24 UTC 版)

毛利輝元」の記事における「西軍決起と大坂城入城」の解説

慶長5年1600年5月家康上杉景勝上洛拒否したことを理由に、これを秀頼に対す謀反として、会津へと出兵した。家康前年9月大坂城入城し以降豊臣政権家康運営しており、輝元も景勝討伐に対して賛同せざるを得なかった。とはいえ、輝元は景勝ととも石田三成襲撃事件解決2人調整して以降強く結びついていたと考えられている。 6月16日家康諸将引き連れて会津へと出陣したが、輝元はその直前広島へと向けて帰国した。輝元は広家と恵瓊出陣させたが、恵瓊三成大谷吉継会談し家康対す決起決めた7月遂に三成挙兵した。この時、三成は吉継の進言に従って自身総大将就かず家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍総大将として擁立しようと画策する。輝元も恵瓊説得受けて総大将への就任一門重臣相談することなく受諾する。そして、輝元は7月12日付の書状五奉行のうち前田玄以増田長盛長束正家から上坂求められた。 7月15日、輝元は三奉行からの書状受け取るとすぐ広島出発し7月19日には大坂城入城した醍醐寺三宝院門跡義演記した日記義演准后日記7月19日条よると、その兵力は6であったという。それより2日前の17日、秀元は家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸占拠しており、城内から家康留守居役追い出していた。大坂徳川氏勢力動き封じ、秀頼を手中に収めることは西軍決起計画最重要行動一つであったが、これは輝元の判断なしで秀元が行える行為ではなく、輝元は17日時点で在坂していたか、あるいは事前に元に対して指示出していたことになる。 輝元は大坂城入城後、諸将から西軍総大将推挙され盟主として軍勢指揮を執っていた。だが、関ケ原の戦い終結まで城から出陣することはなかった。

※この「西軍決起と大坂城入城」の解説は、「毛利輝元」の解説の一部です。
「西軍決起と大坂城入城」を含む「毛利輝元」の記事については、「毛利輝元」の概要を参照ください。

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