西軍決起と大坂城入城
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慶長5年(1600年)5月、家康は上杉景勝が上洛を拒否したことを理由に、これを秀頼に対する謀反として、会津へと出兵した。家康が前年9月に大坂城に入城して以降、豊臣政権は家康が運営しており、輝元も景勝討伐に対して賛同せざるを得なかった。とはいえ、輝元は景勝ととも石田三成襲撃事件の解決を2人で調整して以降、強く結びついていたと考えられている。 6月16日、家康は諸将を引き連れて会津へと出陣したが、輝元はその直前に広島へと向けて帰国した。輝元は広家と恵瓊を出陣させたが、恵瓊は三成や大谷吉継と会談し、家康に対する決起を決めた。 7月、遂に三成が挙兵した。この時、三成は吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。輝元も恵瓊の説得を受けて、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾する。そして、輝元は7月12日付の書状で五奉行のうち前田玄以、増田長盛、長束正家から上坂を求められた。 7月15日、輝元は三奉行からの書状を受け取るとすぐ広島を出発し、7月19日には大坂城に入城した。醍醐寺三宝院門跡・義演の記した日記『義演准后日記』7月19日条よると、その兵力は6万であったという。それより2日前の17日、秀元は家康が居を置き政務を執っていた大坂城西の丸を占拠しており、城内から家康の留守居役を追い出していた。大坂の徳川氏勢力の動きを封じ、秀頼を手中に収めることは西軍決起の計画の最重要行動の一つであったが、これは輝元の判断なしで秀元が行える行為ではなく、輝元は17日の時点で在坂していたか、あるいは事前に秀元に対して指示を出していたことになる。 輝元は大坂城に入城後、諸将から西軍の総大将に推挙され、盟主として軍勢の指揮を執っていた。だが、関ケ原の戦いの終結まで城から出陣することはなかった。
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