西軍との同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 08:42 UTC 版)
祖父・持清の従弟であり、侍所所司代を勤めた多賀高忠は、室町幕府や管領・細川勝元への働きかけ、叔父・京極政経を後見役に孫童子丸が家督を継ぎ近江・飛騨・出雲・隠岐守護職に補任された。孫童子丸が幼かった為、幕府は南近江の六角政堯を守護職補佐として付ける。それに対して乙童子丸派の政光と多賀清直は反発し、文明2年9月に西軍へ寝返り、六角亀寿丸と和睦して孫童子丸派を江北(湖北)から追放しようとする。 翌年の文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折し、新たな跡目争いが起きる。同年に幕命により六角政堯が近江守護職を補任するが、従弟の六角亀寿丸に敗れ自害する。孫童子丸派の勢力は弱まり、乙童子丸派の多賀清直が孫童子丸派の多賀高忠へ攻勢をかける。幕府の後押しを受けて多賀高忠は反撃、文明4年(1472年)9月頃までに国人衆を押さえて湖東・湖北を掌握した。 追い詰められた政光は、美濃小守護代の斎藤妙椿に援助を要請し、9月末に西軍の京極政光・京極乙童子丸・多賀清直・多賀宗直・六角亀寿丸・斎藤妙椿ら連合軍は孫童子丸派を破り、京極政経・多賀高忠らを越前へ敗走させる。政光を後見役に乙童子丸が家督を継ぎ飛騨・出雲・隠岐守護職となるが、幕命により近江守護職は政堯の養子・六角虎夜叉が補任されていた。同年に後見役だった政光が病死し、守護代の多賀清直・宗直父子が乙童子丸を補佐する。 翌年の文明5年(1473年)に幕府より乙童子丸の飛騨・出雲・隠岐守護職の解任と、京極政経への飛騨・出雲・隠岐守護職を補任する命が下る。分国の出雲へ落ち延びていた京極政経と多賀高忠は、文明7年(1475年)9月に出雲の国人衆を率いて上洛し、延暦寺僧徒と信濃の小笠原家長ら東軍の支援を受けて近江へ進攻し、観音寺城下で西軍の六角亀寿丸・京極高清(乙童子丸)・多賀清直・多賀宗直の連合軍は大敗する。敗れた六角勢は観音寺城へ籠城し、京極勢は江北へ撤退する。この勝利によって幕命が下り、六角虎夜叉の近江守護職は解任され、京極政経が近江守護職に補任された。 同年10月に美濃守護土岐成頼と越前・尾張・遠江守護斯波義廉の援軍が近江へ到着し、西軍の反撃が始まる。高清は西軍の六角亀寿丸・斯波義廉・土岐成頼・斎藤妙椿ら連合軍と共に京極政経・多賀高忠らを破り、多賀高忠を京都に敗走させるも一進一退の攻防は応仁の乱後も続いた。
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