西軍上陸とは? わかりやすく解説

西軍上陸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)

新発田藩」の記事における「西軍上陸」の解説

4月23日溝口内匠江戸出発し途中西軍怪しまれ捕えられ高田護送され、同じ頃、山崎重三郎西軍捕まっていた。京都窪田兵衛寺田惣次郎派遣し内匠山崎5月20日釈放されていたが、今度寺田高田捕まっていた。西軍新発田を完全には信用していなかった。窪田今度は、貢士相馬作右衛門高田派遣する貢士各藩新政府派遣している藩士で、家老窪田でも勝手に命令できない新政府弁事務所にかけあって許可をもらい、6月29日相馬高田派遣7月9日着いた。そこで藩の事情詳しく述べ、ようやく寺田釈放された。寺田相馬その足で柏崎まで赴き、薩摩参謀吉井幸輔会った吉井京都窪田親しく新発田実情よく知っている人物だった。寺田相馬吉井に連れられ長岡にいる山縣有朋黒田了介の両参謀とも会った折から七月十三日参謀楠田十左衛門新発田寺田某、相馬某の両人同道して到着したるが、両人言ふによれば新発田賊徒のために迫られて、已む得ず多少の兵を出したといえどももとより王師抗するの意あるに非ざれば、両人帰郷の上国内鎮撫して、王師迎うこととしたし、とのことにて、果してその言に詐りなければ、敵の背後上陸すべき軍隊は、一層の便利を得るわけなり。よって吉井同日、即ち十三日柏崎に赴き、同処において海軍と、打ち合わせをなすことに決したり — 『越の山風山県狂介 吉井二人密命伝え旅券渡し新発田へ帰藩させた。7月20日新発田到着黒田了介総指揮官とする1000余名の上部隊は、7月24日佐渡小木港寄港し、夜10時より新発田太夫浜向けて出港した25日朝、西軍太夫浜上陸新発田城下へも知らせ飛び藩士島村某の1小隊上陸地点急行し、藩の帰順伝え城下先導した半分新潟方面へ、半分新発田向かった。この夜、溝口半兵衛は、黒田会談し藩主柏崎へ赴き、仁和寺宮に拝謁することによって官軍疑念晴らすよう勧められる市民また自費をなげうち、頗る歓待せり — 新発田藩戊辰始末 こういう状況だったので新発田藩は、江戸400人、見附500人、沼垂200派遣しているのに、即座に400人を城下周辺配備させることができた。民兵達の力に負うところが大きかった

※この「西軍上陸」の解説は、「新発田藩」の解説の一部です。
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