西軍上陸
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閏4月23日、溝口内匠が江戸を出発し、途中西軍に怪しまれ捕えられ高田へ護送され、同じ頃、山崎重三郎も西軍に捕まっていた。京都の窪田平兵衛は寺田惣次郎を派遣し、内匠と山崎は5月20日に釈放されていたが、今度は寺田が高田で捕まっていた。西軍は新発田を完全には信用していなかった。窪田は今度は、貢士相馬作右衛門を高田へ派遣する。貢士は各藩が新政府へ派遣している藩士で、家老の窪田でも勝手に命令できない。新政府弁事務所にかけあって許可をもらい、6月29日相馬を高田に派遣、7月9日に着いた。そこで藩の事情を詳しく述べ、ようやく寺田も釈放された。寺田、相馬はその足で柏崎まで赴き、薩摩の参謀吉井幸輔に会った。吉井は京都の窪田と親しく、新発田の実情もよく知っている人物だった。寺田、相馬は吉井に連れられ長岡にいる山縣有朋、黒田了介の両参謀とも会った。 折から(七月十三日)参謀楠田十左衛門、新発田人寺田某、相馬某の両人を同道して到着したるが、両人の言ふ処によれば、新発田は賊徒のために迫られて、已むを得ず多少の兵を出したりといえども、もとより王師に抗するの意あるに非ざれば、両人帰郷の上、国内を鎮撫して、王師を迎うることとしたし、とのことにて、果してその言に詐りなければ、敵の背後に上陸すべき軍隊は、一層の便利を得るわけなり。よって吉井は同日、即ち十三日に柏崎に赴き、同処において海軍と、打ち合わせをなすことに決したり — 『越の山風』 山県狂介 吉井は二人に密命を伝え、旅券を渡し、新発田へ帰藩させた。7月20日に新発田に到着。 黒田了介を総指揮官とする1000余名の上陸部隊は、7月24日佐渡の小木港に寄港し、夜10時より新発田領太夫浜へ向けて出港した。25日朝、西軍は太夫浜に上陸、新発田城下へも知らせが飛び、藩士島村某の1小隊が上陸地点へ急行し、藩の帰順を伝え、城下へ先導した。半分は新潟方面へ、半分は新発田へ向かった。この夜、溝口半兵衛は、黒田と会談し、藩主が柏崎へ赴き、仁和寺宮に拝謁することによって官軍の疑念を晴らすよう勧められる。 市民また自費をなげうち、頗る歓待せり — 新発田藩戊辰始末 こういう状況だったので新発田藩は、江戸に400人、見附に500人、沼垂に200人派遣しているのに、即座に400人を城下周辺に配備させることができた。民兵達の力に負うところが大きかった。
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