その学風
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 08:12 UTC 版)
開校時に三宅石庵は玄関に三か条の「定」を掲げた。 書物を持たないものも講義を聞いてよい やむをえない用事があれば途中退席してもよい 席次は武家を上座と定めるが、講義開始後は身分によって分けない 三宅春楼の代には、正式な入門を経ずとも聴講できる、席次は新旧、長幼、理解の深度に応じて互いに譲り合う、と定められた。この時の定書には「書生の交わりは、貴賤富貴を論ぜず、同輩と為すべき事」という言葉があり、その後もこの方針は守られた。 三宅石庵が学主であった初期には、朱子学・陽明学などを交えた雑駁な学風で、「鵺学問」とも批判された。元文4年(1739年)に五井蘭洲が復帰してより以降、正統な朱子学を標榜して荻生徂徠の学派を排撃し、その徂徠学批判は中井竹山らの時代に頂点を迎えた。門下より草間直方・富永仲基・山片蟠桃のごとき特徴的な町人学者を輩出したことでも知られる。
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