南学の大成
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谷時中(1598年 - 1649年、号「鈍斎」「鈍翁」)は、天質の弟子である。もと真乗寺の僧であったが、経書の研究に熱中し、還俗して朱子学者となった。文集6巻、語録4巻を著したと伝えるが、散逸して伝わらない。今、その学術、思想の細部を知るに由ない所以である。性豪邁でみずから貴しとなし、権門を恐れなかったという。また、理財に才があり、巨富を築いたことでも知られ、あるときには田地300石を売りはらってことごとく書籍を求めたという。当時、時中の文庫は土佐有数の規模を誇った。門下に野中兼山、山崎闇斎、小倉三省が出て、その学はいよいよ隆盛を極めた。 野中兼山(1615年 - 1663年、名「良継」)は播磨国姫路の人。時中に学んだ。土佐藩に仕えていた親類の養子となり、寛永8年(1631年)、奉行職に就く。産業振興、港湾の改修など藩政の改革を断行し、朱子学の学風をひろめるに功あったが、そのあまりに峻厳な施政のため、次第に人心を失い、寛文3年(1663年)、職を追われ蟄居した。『朱子語類』『小学』の訳解をつくり、『自省録』『兼山遺草』などの著作をものした。みずからが改修した室戸港竣工の折の文章『土佐国室戸港記』(1661年)がその代表的な文。また書籍の収集にも熱心で、その書庫は兼山文庫と呼ばれる。 小倉三省(1604年 - 1654年、名「克」、字「政義」)は土佐の人。谷時中に学び、その学を時中の子一斎に伝えた。温厚仁慈にして長者の風格があり、庶士にひろく慕われた。兼山とともに藩政に参画したが、父の死後、絶食してその跡を追うたため、兼山の失脚を見ることはなかった。著書に『周易大伝研幾』。 山崎闇斎(1618年 - 1682年、名「嘉」、字「敬義」)は京都の人。若くして出家し、吸江庵に巡杖して谷時中に師事。南学の感化を受け、還俗して儒者となる。京に戻って学塾をひらき、のち木下家定、保科正之らの聘を受けた。その学は朱子学に吉川神道の伝を交え、独自の国粋的(日本的)儒学を形成したもので、闇斎の別号「垂加先生」から垂加神道とも称される。その門からは佐藤直方、浅見絅斎ら近世初期のすぐれた朱子学者を輩出し、後代土佐にも闇斎の学統を慕う文人が多かった。著作に『垂加先生文集』正続があるが、高知に関係する文学的作品としては、長岡郡本山帰全山の美景を描いた『帰全山記』が有名。 兼山、三省、闇斎を経て、時中の学統は谷一斎、大高坂芝山、黒岩慈庵らに引きつがれるが、彼らも兼山の失脚と時を同じくして退けられ、土佐藩を去ったため、一時南学の伝統は土佐に途絶えることになった。谷一斎(1625年~1695年、名「松」、字「宜貞」)は時中の子。父の没後、小倉三省に師事し、さらに京で山崎闇斎に学んだ。兼山の失脚後、京へ逃れ、やがて江戸に出て稲葉氏に仕えた。著作に『封事』。 大高坂芝山(1647年 - 1713年、名「清介」、字「季明」)。一斎の弟子で、兼山失脚後、江戸へ出て松山久松家などに仕えた。『吉良物語』に評を加えたほか、『南学伝』『南学遺訓』によって南学の歴史と教えを大成した。別集に『芝山会稿』。ここに収める「北江記」(1662年)は吸江十景を詠ったものである。また、妻いさ(阿波の人)も文名があり、『女訓唐錦』という訓戒書をつくっている。 黒岩慈庵(1627年 - 1705年、名「寿」)は安芸郡安芸の人。兼山、闇斎に師事するが、兼山失脚後、江戸へ出、黒田氏に仕える。慈庵は文学的作品に優れたものが多く、藩主山内忠義に従って高岡郡鳴無宮に参詣した折の『鳴無紀行』(1663年)、友人と吸江に遊んだ折の『吸江遊覧詩並序』(1665年)、いずれもその文名を高からしめた。
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