書籍の収集
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羽田八幡宮文庫では、世話人が持ち寄った書籍だけでは不十分と考え、有志からの寄付(奉納)を勧めるチラシを作成している。吉田藩主の松平信古もこのような動きに呼応し、嘉永5年(1852年)には『四書大全』や『皇朝史略』など書籍37巻を寄付したほか、文庫の永続料として毎年米10俵を贈ることとした。 安政5年(1859年)、水戸藩が伊勢神宮や熱田神宮の文庫に対し『大日本史』を寄付しているという話を聞きつけた羽田野は、師の平田銕胤(篤胤の養子で気吹舎主人)を通じて自分の文庫にも寄贈を願ったがかなわず、代わりに中国の天主教批判書で徳川斉昭の序文を付して水戸で翻刻された『破邪集』8巻が奉納された。 『大日本史』全343巻100冊は、文庫設立発起人の1人佐野蓬宇(1809-1895、本名は深寧(ふかやす)、蓬宇(ほうう)は俳号)が7両2分を出し、銕胤の取次で購入し、奉納している。佐野蓬宇は吉田本町で万屋という饅頭屋を営み、福谷水竹より22歳若い鶴田門の俳人で、幕末期の当地の俳壇の中心的人物であった。数人いる文庫運営の幹事のうちのひとりでもあったが、文久元年(1861年)までに1,000巻を寄付した同文庫最大の寄進者であった。佐野は、自分で購入したのみならず、俳人としての広い人脈を通じて各地からの寄付を取り次いでいる。 佐野に次いで多く奉納したのは羽田野自身であり、安政元年(1854年)までに600部を寄進している。羽田野の場合は、刊本のみならず、各種の記録など自筆の写本も多数納めている。羽田野が関西を旅行した嘉永6年(1853年)には、大坂道頓堀の書店秋田屋で『二十一史』306冊、『十三経注疏』200巻、各国の国絵図などを購入して別便で送らせており、翌年には従来の自らの蔵書とあわせ寄贈した。なお、羽田野が秋田屋で書籍を購入した際に『和漢三才図会』81冊、『五経集注』57巻を同時注文しており、これは吉田船町の町人斎藤九郎兵衛からの寄進となっている。 その他、国学者鈴木重胤は松浦武四郎の『後方羊蹄日記』などを寄進し、のちに赤報隊に加わった三浦秀波(佐藤清臣)が『楠木正成卿御旗写』を、伊東玄朴門人で羽田野女婿の武田準平が川本幸民の『気海観瀾広義』を、吉田の町人出身でのちに咸臨丸に乗船する福谷啓吉が『新訂牛痘寄法』(英国人ドルモンド:輯、清国鄭崇:刻、広瀬元恭:翻刻)をそれぞれ寄付するなど、その寄贈者は多様で寄贈本も多岐にわたった。 文庫の蔵書は、安政2年(1855年)春「1,000部、5,100余巻」となったので、この年の8月25日に歌会が開かれている。文久元年(1861年)6月の虫干しの際には「部数1,686部、巻数7,867巻」、翌文久2年7月には「1,751部、8,123巻」を数えた。その後も蔵書は順調に増えつづけ、慶応3年(1867年)には10,000巻を超えた。明治9年(1876年)には、蔵書は「皇典1,978部・6,979巻、漢籍400部・3,009巻、梵洋133部369巻、通計2,515部・10,357巻」となっている。 蔵書の分野は、神道や国学に関するものが多いが、それ以外でも農学、医学、天文学、語学、異国情報など多岐にわたっている。蘭学入門書として知られる『蘭学階梯』や『解体新書』『機巧図彙』などの科学書もあり、種痘関係はじめ翻訳洋書も種々みられる。
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