大村純鎮とは? わかりやすく解説

大村純鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 15:38 UTC 版)

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大村純鎮
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦9年8月20日1759年10月10日
死没 文化11年7月16日1814年8月30日
改名 新八郎(幼名)、純鎮
戒名 濬哲院憲章徳翁日新大居士
墓所 長崎県大村市本経寺
官位 従五位下信濃守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
肥前大村藩
氏族 大村氏
父母 大村純保植村家包
兄弟 純将、純鎮
正室:松平容頌養女
大村鎮直の養女(鉤氏の娘)
板倉勝晙正室、純昌、酒井忠明室、章姫、隈包辰室、純文、酒井忠藎正室
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大村 純鎮(おおむら すみやす)は、肥前国大村藩9代藩主。

生涯

宝暦9年(1759年)8月20日、第8代藩主・大村純保の次男として江戸で生まれた。宝暦10年(1760年)12月16日に父が死去したため、宝暦11年(1761年)2月16日に幼くして家督を継いだ。

寛政元年(1789年)8月より倹約、文武の奨励などを中心とした藩政改革を行い、寛政2年(1790年)に藩校の静寿園を五教館と改称し、藩士だけでなく百姓町人の入校も認めた[1]寛政6年(1794年)1月10日、江戸愛宕下の大村藩上屋敷が火災で類焼した。同年、この上屋敷の土地は幕府に収公され、替地として永田町の土地と移転費用が渡された。

享和3年(1803年)1月23日、家督を長男の純昌に譲って隠居した。

文化11年(1814年)7月16日に大村で死去した。享年56。

系譜

  • 父:大村純保(1734-1761)
  • 母:植村家包の娘
  • 正室:留姫 - のち離縁。会津藩主松平容頌の養女で会津藩世子松平容章の娘
  • 室:家臣大村鎮直の養女(京の鉤氏の娘)
  • 生母不明の子女
    • 女子:板倉勝晙正室 - 備中国松山藩主
    • 女子:酒井忠明室
    • 三女:章姫 - 出羽国天童藩主織田信美正室
    • 女子:珍子(昵) - 家臣隈包辰(針尾政納)[2]
    • 次男:大村純文
  • 養子
    • 女子:越前国敦賀藩主酒井忠藎正室 - 実父は有馬純養(越前国丸岡藩主有馬孝純の長男)

脚注

  1. ^ 静寿園の頃から大村藩の藩校は藩士子弟に限らず開かれていた。
  2. ^ 針尾氏出身で文化11年(1812年)藩命により隈鎮豊の養子となり同年珍子と結婚。文政元年(1818年)に城代となり、同3年(1820年)に藩命で針尾家に戻り同家相続。政納は後妻を迎えているため、早期に死別か。






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