ヒューストン政権の1期目: 1836年-1838年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 15:22 UTC 版)
「テキサスのインディアン戦争」の記事における「ヒューストン政権の1期目: 1836年-1838年」の解説
ヒューストン政権の1期目はテキサスを独立国として維持することに焦点が置かれ、平原インディアンと戦争をする資源は無かった。 ヒューストンはその子供時代の大部分をテネシー州のチェロキー族インディアンと共に過ごしており、スコットランド系アイルランド人とチェロキー族酋長ボウルズの血を引いていた。ボウルズ酋長は大胆な猟師を意味するディワルリとも呼ばれていた。ヒューストンはチェロキー族が住む土地に対する権利を与えた「厳粛宣言」を支持した。1836年2月23日にチェロキー族との条約を交渉し、"ジェネラル"・ボウルズ酋長の集落に最初の暫定テキサス政府を創った。ヒューストンとジョン・フォーブスがテキサス政府のために署名し、ボウルズ酋長、ビッグマッシュ、サミュエル・ベンジ、オソータ、コーンタッセル、ザ・エッグ、ジョン・ボウルズ(酋長の息子)、およびテヌータがチェロキー族、ショーニー族、デラウェア族、キカプー族、クアポー族、ビロキシー族、イオニ族、アラバマ族、コーシャッタ族、ネチェズのカドー族、タホカルレイク族およびマタクオ族のために署名した。この条約で認められた地域には、今日のスミス郡とチェロキー郡、およびバンザント郡、ラスク郡とグレッグ郡の一部が含まれた。またこの条約ではテキサス市民を含め部族のメンバーでない者には土地を売ることも貸すこともできないと述べられていた。条約の調印後、ヒューストンはボウルズ酋長に刀、赤い絹のベストおよび帯を贈った。 共和国大統領としてのヒューストンの最初の行動は、この条約の批准を求めてテキサス上院に送ることだった。この批准が1年間も上院の審議で滞った後、この条約はテキサス市民にとって不利益をもたらすと最終的な決定が下された。これはデイビッド・G・バーネットがチェロキー条約の土地の中に広大な土地を持っていたからだとされている。この条約は1837年12月26日に「無効」と宣言された。ヒューストンは大統領ではあったが、条約の規定を実行させようとして、テキサス民兵隊の指揮官であるトマス・J・ラスク将軍に境界線を明確にするよう求めた。ヒューストンにとって不運なことにこれは成功せず、この件について何もできないままその任期の終わりを迎えた。 ヒューストン政権の1期目におけるインディアン問題はコルドバの反乱で脚光を浴びた。チェロキー族インディアンとヒスパニックが共謀して新しいテキサス共和国に反乱を起こし、メキシコに再加盟するという広範囲の陰謀の証拠が存在した。ヒューストンは友邦であるチェロキー族が関わっていると考えることを拒否し、チェロキー族の逮捕命令も拒否した。コルドバの反乱はヒューストンが流血沙汰や広範囲の騒擾なしで収めてしまったその能力を際立たせた。ヒューストンが大統領を辞めるとき、共和国は先住民との和平関係を維持していた。 ヒューストンがその1期目にインディアンとの和平を確立することに大いに成功したとしても、テキサス共和国議会はインディアンの土地を白人開拓者に開放する法律を成立させ、ヒューストンの拒否権も無効にした。開拓前線はブラゾ川、コロラド川およびグアダルーペ川に沿って急速に北に移動し、コマンチェ族の猟場やコマンチェリアの中に入っていった。間もなくテキサスとコマンチェ族の関係は暴力沙汰に変わっていった。ヒューストンは和平を取り戻す為の努力をし、テキサス開拓者の活力に警告を受けたコマンチェ族はその伝統的な境界に関する概念に逆らってでも固定した境界を要求することを検討し始めた。しかし、ヒューストンはテキサスの法律によって共和国が権利主張する土地を幾らかでも譲ることを禁じられていた。それでも1838年にはコマンチェ族との和平を達成することができた。
※この「ヒューストン政権の1期目: 1836年-1838年」の解説は、「テキサスのインディアン戦争」の解説の一部です。
「ヒューストン政権の1期目: 1836年-1838年」を含む「テキサスのインディアン戦争」の記事については、「テキサスのインディアン戦争」の概要を参照ください。
- ヒューストン政権の1期目: 1836年-1838年のページへのリンク