アパッチ族の襲撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
「スペイン領テキサス」の記事における「アパッチ族の襲撃」の解説
インディアンの部族は自由に交易を行い、間もなく多くの者がフランスの銃を手に入れ、スペインの馬を手に入れた者もいた。どちらの国にも接近できなかった部族は不利な状況に置かれた。季節によって農業を行っていたリパン・アパッチ族は、馬を持っているコマンチェ族や銃を持っているウィチタ族に圧迫されるようになった。アパッチ族はテキサス東部のテハス族の旧敵であり、テハス族と友好関係にあるスペイン人にその敵意を向けた。アパッチ族は1720年にサンアントニオを発見した後、繰り返しその地域を襲って特に馬を中心に家畜を盗んだ。アパッチ族による攻撃の結果、テキサスでは毎年平均して3人のスペイン人が死に、約100頭の家畜が奪われた。その報復のためにスペイン人はアパッチ族に何度も攻撃を掛け、馬やラバ、隠匿物やその他の略奪品を取り返し、アパッチ族を捕虜にして、家事を行う従僕に使った。しかし、1731年までにサンアントニオの守備兵はインディアンとの和平交渉を手助けしてくれるよう政府に嘆願するようになった。 スペイン政府は開拓者達がその資産を守り、幾つかの砦の必要性を軽減するものと思っていた。しかしテキサスは、武装した放浪の部族、高い物価および貴金属が出なかったことのために、開拓者の大半にとって魅力のある所ではなかった。1731年、スペイン政府はカナリア諸島からサンアントニオに大半が女性と子供ばかりの55人を移住させた。当時サンアントニオにはわずか300人のヒスパニック系開拓者がおり、他に200人が植民地中に散らばっているだけだった。新しい移民は農業を始め、町の名前をサンフェルナンド・デ・ベハールと改名し、テキサスでは初の市と唯一の文民政府を設立した。開拓者の中で最長老だったフアン・レアル・ゴラスが最初の市長に指名された。 市の最初の開拓者として、島民とその子孫はイダルゴ(貴族)と呼ばれた。既にいた開拓者達は島民達が新しい肩書きを持ち、市政府の中で排他的特権を持つことに不満だった。新しく到着した者達は馬の扱い方を知らず、アパッチ族に対抗して馬で戦闘するときには使えなかった。放牧に依存する古くからの開拓者とは異なり、島民達は主に農業を行っており、家畜が畑を踏み荒らした時に古くからの開拓者が塀を作ることを拒んだために多くの者が不満を抱いた。しかし、1740年初期までに民族間の結婚と経済的に密接な結びつきができたことで、内部闘争をいくらか和らげることになり、当初から居る開拓者達も市の役人や委員会メンバーとして働くことを認められた。 アパッチの襲撃による脅威はサンアントニオを常に不安定な状態にしており、その地域を離れる家族がおれば、その家畜の世話をするために町の安全性を放っておくことを拒む家族もいた。この問題は1745年6月30日、その数ヶ月前にスペインの軍隊が行った作戦行動の報復として、350人のアパッチ族がサンアントニオに深夜の襲撃を掛けたことで最高潮に達した。この攻撃部隊はバレロ伝道所から100人のインディアンが応援したことで撃退できた。アパッチ族はデッドーズ族やトンカワ族など、他の部族も餌食にした。1740年代、これら弱い部族はスペインが攻撃から守ってくれることを期待して、サンガブリエル川沿いの伝道所に救いを求めた。1746年1月に、デッドーズ族、メイアイ族およびココ族インディアンに奉仕するためにサンガブリエル川とブッシー・クリークの合流点に聖フランシスコ・ザビエル伝道所が設立された。1748年だけでも、アパッチ族は4回伝道所を襲撃し、3人の兵士とインディアン住人4人を殺した。インディアン住人の多くは攻撃を恐れて伝道所から逃げ出した。それでも宣教師達を挫けさせることはなく、翌年その地域にサンイルデフォンソとヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・カンデラリアの2つの伝道所を追加した。それから6ヶ月以内にサンイルデフォンソで改宗する可能性のあった者全てが立ち去った。1755年までに、その伝道所はサンマルコス川の新しい場所に移された。
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