アパッチプロレス軍所属として大日本プロレスへ帰還
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「葛西純」の記事における「アパッチプロレス軍所属として大日本プロレスへ帰還」の解説
2005年、伊東竜二からの呼び掛けに応える形で、伊東からBJW認定デスマッチヘビー級王座を取るため、アパッチプロレス軍を通じて大日本プロレスに復帰。当初はフリーであったが、後にアパッチ所属となった。同年6月8日の大日本プロレスの大会でそれまで危険すぎるという理由で実現に至らなかったカミソリ十字架ボードデスマッチを、"黒天使"沼澤邪鬼戦で敢行。沼澤のパワーボムでボード上に叩きつけられ設置されたカミソリの形状そのままに背中から大出血を起こす事態を見せた。試合後、沼澤に呼び掛ける形でキチガイタッグ「045邪猿気違's(ゼロヨンゴ ジャンキーズ)」を結成。伊東竜二のデスマッチヘビー級王座挑戦を表明していたが、10月下旬、内臓疾患のため、休養を余儀なくされ、伊東への挑戦は泡と消えた。 手術を受け長期の活動停止状態にあったが、2006年3月19日のアパッチ主催興行の有刺鉄線ボード6人タッグ戦で復帰。4月14日に行った佐々木貴とのデスマッチ対決に続き、045邪猿気違'sの一員として参加した4月22日の大会から大日本プロレスにも復帰。 9月、アパッチにて、大日本プロレスOBの本間朋晃とのタッグで、佐々木貴&BADBOY非道の持つWEWタッグ王座に挑戦して見事勝利した。しかし、目標としていた伊東竜二のデスマッチヘビー級王座挑戦は、伊東の負傷によるタイトル返上で2度も幻となった。 その傍ら大日本プロレスにてデスマッチスクール「スクール・オブ・デス(狂気学校)」を開校し、その校長に就任。沼澤を教頭に、MEN'Sテイオーを理事長に指名し、第4世代デスマッチファイターの育成にも力を注ぐ。 12月25日のアパッチ新木場1stRINGでは、自らがプロデュースする1dayデスマッチトーナメントを開催。主催者の葛西は決勝戦でジ・ウインガーに敗れたものの、金村キンタローや黒田哲広などのトップどころのいない中で超満員の観客を動員し、見事成功を収め、「今度は屋外でやりたい」と、第2回の実施を予告した。 この年には米国のIWAイーストコーストへの参戦を果たしたうえで、トビー・クライン、マッドマン・ポンド、コーク・ヘイン、コーポラル・ロビンソン、ドレイク・ヤンガー、JCベイリー、2・タフ・トニーという、自身を含めて総数8名のレスラーらが参加したマスターズ・オブ・ペインというデスマッチ選手権の初大会に参加。有刺鉄線やザリガニや蛍光灯を用いたデスマッチでトビー・クラインとマッドマン・ポンドを破って勝ち進み、ついには決勝戦でJCベイリーを下してその初代覇者の座へと君臨した。 2007年6月24日のアパッチの大会では、空位となっていたWEWタッグ王座を賭けて、045邪猿気違'sとしてトーナメントに出場し、邪猿気違'sとして初のタイトルを獲得した。 2007年11月26日の大会で左膝半月板を損傷、これの手術を行った。これによって長期の欠場を余儀なくされたものの、2008年5月―佐々木貴の自主興行にてメイン終了後に乱入。6月のアパッチ興行活動再開に合わせて復帰すると発表。5月25日の大日本プロレス大会メイン終了後にも沼澤に呼ばれて登場し、045邪猿気違's活動再開と、デスマッチヘビー級王座のタイトル戦線へ本格的に参入することを明らかにした。
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