アパッチ族インディアンに対する伝道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:45 UTC 版)
「スペイン領テキサス」の記事における「アパッチ族インディアンに対する伝道」の解説
1749年アパッチ族酋長の1団とスペインの役人が、サンアントニオの広場に武器を埋めることで「両者の間のトラブルを象徴的に埋める」儀式があり、遂に休戦が宣言された。スペインはアパッチ族に軍事的な援助も与えることを約束した。リパン・アパッチ族は数回伝道所を求め、1777年に元サンガブリエル伝道所の全ての資産と、短期間彼等を守った守備隊をサンアントニオの北西、サンサバ川沿いのサンタクルス・サンサバ新伝道所に移した。丸太の柵で囲んだ陣地が伝道所から3マイル (5 km) の地の川の対岸に建設され、兵士達がインディアンと結託しないようにされた。この陣地には兵士に伴われて237人の女性と子供を含む400人を収容できた。 アパッチ族は伝道所に寄りつかずにおり、1758年3月16日、スペインが敵部族を援助していることに怒ったコマンチェ族、トンカワ族およびハシナイ族インディアンの1隊が伝道所を略奪して火を付け、8人を殺した。サンサバ伝道所はテキサスのスペインによる伝道所の中で唯一インディアンによって完全に破壊されたものとなり、再建されることは無かった。インディアンの部隊は2,000人もいたが、砦を攻撃しようとはしなかった。 スペイン政府は、そのような行動がスペインを弱く見させることを恐れ、その地域を完全に放棄することは拒んだ。スペインが報復を計画している間に、インディアンはサンサバの馬の群れを襲撃し、馬やラバを全て盗み、20名の兵士を殺害した。1759年10月、スペインはサンサバの指揮官ディエゴ・オルティス・パリーリャ大佐をレッド川北への遠征に派遣し、攻撃の借りを返そうとした。インディアンは前もって報せを受けており、パリーリャの軍隊を木柵と堀で囲まれ防御の施されたウィチタ集落に誘導し、フランスの銃を示し、フランス国旗を振った。スペイン兵52名が戦死、負傷または脱走した小戦闘の後で、スペイン軍は撤退した。サンサバ砦は石灰岩の塀と堀のあるものに置き換えられたが、コマンチェ族とその同盟部族は近くに留まっており、外に出てきた兵士を誰でも殺した。1769年までにスペインはこの砦を放棄した。 1762年、宣教師達がサンサバの南ニュエセス川流域に承認を得ていない伝道所を2カ所設立した。その後数年間、アパッチ族は1年の大半を伝道所の中で暮らし、冬にはバッファローを狩りに出かけた。伝道所の1つは、アパッチ族が狩りから戻って来なかった1763年に閉鎖された。1766年1月、北方部族の400人の部隊が攻撃してきて6人のアパッチ族を殺し、25人を捕虜にし、流域にいたあらゆる家畜を連れ去ったときに、残っていた伝道所も閉鎖された。北方部族がテキサス東部に戻るときに41人のスペイン兵とその小さな大砲で待ち伏せした。スペイン兵が退却を強いられるまでに200人以上のインディアンと12人のスペイン兵が戦死した。この戦闘後、アパッチ族は伝道所に戻ることを拒み、サンアントニオ近くでの襲撃に戻った。しかし、北方部族による襲撃は減った。
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