先住民族の土地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 19:17 UTC 版)
1763年時点で大英帝国の直面する最大の問題は、1763年のパリ条約でフランスから獲得した領土に住む北アメリカ・インディアンとの和平を保つことであった。特に五大湖地方に住み多くの先住民族はフランスと長い間密接な関係を続けてきており、イギリスの支配下に入ったことで混迷していた。ポンティアック戦争 (1763-1766)は、以前フランスが領有権を主張していた土地をイギリスが占有することを阻止するために先住民族が起こしたものであったが、不成功に終わった。1763年宣言はポンティアック戦争以前に発効されていたが、紛争の勃発によりその実行が急務となった。イギリス政府の役人はアメリカ・インディアンにイギリスの規則を認めさせ、それ以上の敵対的行動を抑えようと考えた。 この宣言は大西洋岸にあるイギリスの植民地と、アパラチア山脈の西側のアメリカ・インディアン保有地との境界線(「宣言線」と呼ばれた)を定めた。宣言線は白人とアメリカ・インディアンとの間の恒久的な境界を意図したものではなく、順を追って法的な手段でさらに西方に利用可能な土地を増やしていくための一時的なものであった。アメリカ・インディアンの土地をめぐって過去に問題を起こしてきた私的な取引を禁止し、その代わりに、「当該インディアンとの公的な集会あるいは議会で」イギリスの役人が土地の取引を行うこととしていた。さらに植民地人の宣言線を越えた移動と入植を禁じ、植民地の役人は本国の承認なくしては土地の所有権を特許してはならないものとした。この宣言はイギリス王室にアメリカ・インディアンから独占的に土地を購入する権利を与えていた。 歴史家のコリン・キャロウェイによれば、「この宣言が民族の主権を認識していたか、あるいは少しずつ蝕んでいくこととしていたかはどちらにも否定的である」としている。宣言の文脈からは、すべての土地が究極的にイギリスに属するものと考えていたのは明らかである。しかし、この宣言で先住民族には過去に占有していた土地に対するある種権利があり、一方で先住民族の主張には関わり無くイギリスが土地の特許を行えるとした重要な先例になった。 この宣言後直ぐに、多くのイギリス人植民者や土地投機家が宣言線に異議を唱えた。既に宣言線を越えて多くの入植者が入っており(ポンティアック戦争の時は一時的に退去した者もいる)、まだ多くの土地に関する訴訟が収まっていなかった。実際のところ、宣言自体は七年戦争に従軍したイギリス軍兵士に土地を特許されるようにしたものだった。著名なアメリカの植民者とイギリスの土地投機家が組んでイギリス政府に働きかけ宣言線を西に動かそうとした。その結果、境界線はアメリカ・インディアンとの一連の条約により調整されることになった。スタンウィックス砦条約、ハード・レーバーの条約(共に1768年)、およびロッハーバーの条約(1770年)により、現在のウエストバージニア州、およびケンタッキー州の大部分がイギリス人に入植可能となった。
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