インディアンからの略奪行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 05:46 UTC 版)
「ジョン・スミス (探検家)」の記事における「インディアンからの略奪行」の解説
後にスミスはジェームズタウンを離れてチェサピーク湾の辺りを探索し、飢えた植民たちの要求する食糧を探して、およそ3,000マイル (4,800 km)を動き回って地元のインディアンたちから食料を略奪した。 1608年9月、スミスは地域委員会の議長に選ばれ、規律を重んじる政策を打ち出し、農業を奨励するために有名な警句「はたらかざる者、食うべからず」を作った。[要出典] 植民地はスミスの指導の下で、インディアンの領土を奪いながら拡大成長した。スミスの植民指導者としての手法は、ただ先住民インディアンに対する脅迫と略奪に依っていた。食糧難に悩まされたこの時期に、スミスはポウハタン族のオプチャンカノー酋長(ワフンソナコックの末弟)を人質に取って脅迫し、食料調達を行っている。[要出典] スミスの証言によれば、「この“人殺しのオプチャンカノー”を捕まえ、...彼の頭の長い巻き毛を取り、彼の胸にピストルを宛てて、私は彼の大部隊の中のその家から連れ出した。我々が分かれる前に20トンのトウモロコシを我々の船に積むよう約束させた」とある。インディアンたちにすれば、白人がいきなり押しかけて調停者である酋長を拉致し、「食べ物をよこさなければ酋長を殺す」と脅迫してきたのである。インディアンたちはもちろん、この残虐な侵略者に対して戦いを挑んだ。[要出典] 1609年、ポウハタン族インディアンとバージニアの白人植民者との間に全面的な戦争が起こった。スミスは火薬入れに入れていた火薬の失火で重傷を負った。スミスは治療のために1609年10月にイギリスに向かい、その後バージニアに戻ることは無かった。[要出典]
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