インディアナ州時代
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「ウィリアム・ヘンリー・ハリソン3世」の記事における「インディアナ州時代」の解説
ネブラスカ大学オマハ校在学中、ハリソンはオマハの青年会議所に参加し、1923年にはインディアナポリス市の青年会議所理事会の理事となった。1926年には、インディアナ州、オハイオ州、ケンタッキー州の一部を代表し、青年会議所の全国大会に出席した。 1926年の選挙でマリオン郡の代表としてインディアナ州下院議員に選出され、1期の任期を務めた。また、ハリソンが州下院議員を務めている間、父のラッセル・ハリソンは同州の上院議員を務めていた。1928年にはマリオン郡の郡検事に立候補するも、落選した。 1932年にインディアナ州第12選挙区の共和党候補者として指名を受けた。選挙戦ではハーバート・フーバー大統領を賞賛し、予備選挙では禁酒主義者の「反サルーン・リーグ」、総選挙では反禁酒主義者の「禁酒法改正反対協会」の支持を受けた。総選挙では、民主党現職のルイス・ラドロー議員に敗れた。
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インディアナ州時代
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「エイブラハム・リンカーン」の記事における「インディアナ州時代」の解説
両親は無学な開拓農民であり、リンカーンが7歳のとき(1816年)に一家は貧困と奴隷制度のために、自由州(奴隷のいない州)であるインディアナ州スペンサー郡へ転居して新たなスタートを切った。リンカーンはのちに、この転居は「奴隷制という理由もあった」が、主として土地獲得の困難さだったと述べていた。父がケンタッキー時代に土地と訴訟で何度も苦しむ様を見ていたリンカーンが成人して測量術を覚え、その後に弁護士になったのもこれらの事情が動機になった可能性がある。 9歳のとき(1818年)に、母ナンシーが毒草を食べた牛の乳を誤飲したことでミルク病(en:Milk sickness)になり、34歳で亡くなった。母の死後は2歳年上の姉のサラがリンカーンの面倒を見ていたが、リンカーンが19歳のときに、死産のため21歳で急逝した。 10歳のとき(1819年)に、父トーマスが3人の子を持つ未亡人サラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚した。エイブラハムと継母との関係は良好で、彼女のことを「お母さん」と呼んでいたという。当時リンカーンは本を読むことが好きであり、彼女から本を与えてもらっていたという情報もある。リンカーンは幼いころに辺境の生活にともなうきつい労働を好まなかった。家族や近所の者の中には彼が怠け者だと考える者もいた。10代になって長じるにつれて、家事を行ううえで少年に期待されるあらゆる雑用を進んでこなすようになり、レールフェンスを作るときには斧使いの達人になった。 リンカーンは21歳になるまで家の外で稼いできたものを父に渡すという当時の慣習的義務を果たしていたことも認めている。後年は度々父に金を貸すことがあった。リンカーンの父は無学だったこともあり、次第に父からは疎遠になっていった。教育ジャーナリストのアンナ・スプロウルは、トーマス・リンカーンの言葉として「エイブのやつァ、また教育とかに夢中なんじゃろう。わしは止めようとしたんだが、思い込みがはげしくて、どうにもならん」を紹介しており、父トーマスの様子をうかがうことができる。リンカーンの受けた正式な教育は幾人かの巡回教師からの1年分に相当するほどの基礎教育だけであり、それ以外はほとんど独学であり、読書も熱心だった。
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