教育ジャーナリスト
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その後、教育ジャーナリストに転じ、管理教育の打破を主張。また、若者が自由に出入りできるフリースペース「青生舎」を1976年から1996年まで運営し、ミニコミ誌「学校解放新聞」を発刊。1980年代の反管理教育の潮流を作り、知名度を上げた。教育ジャーナリスト時代、飲酒により退学処分を受け、学校を提訴し係争中だった西原理恵子を取材している。西原とはその後、カット描きの仕事を紹介するなど交友が続いた。また、公文教育研究会が提唱する公文式にも否定的であり、公文式の手法を批判する本も執筆した。 1987年の東京都知事選挙で日本社会党が候補者を決めることができずにいた時、保坂は仲間ととも自主的に土井たか子の擁立運動を仕掛けた。結局、社会党は元参議院議員の和田静夫を推薦候補として立てるが、この時のやりとりをきっかけに、土井とよく話をするようになった。
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