西ドイツとの関係強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 20:39 UTC 版)
「ダヴィド・ベン=グリオン」の記事における「西ドイツとの関係強化」の解説
1960年には西ドイツ首相のコンラート・アデナウアーとニューヨークのウォルドルフ=アストリアホテルで会談し、アデナウアーは、ドイツの賠償支払いが終わってもイスラエルに対する借款による財政援助は続けることを約束し、武器給与に関しても同意した。しかし外交関係の樹立は保留された。アデナウアーの方で、西ドイツがイスラエルを承認すればアラブ諸国が東ドイツを承認してしまうのではないかと危惧したためであった。 1962年にドイツ人の科学者が、イスラエルと対立していたエジプトでミサイルを開発している事実が明らかになると、ベン=グリオンは国防次官シモン・ペレスを通してドイツ国防相フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスに科学者達を処分するよう要請する書簡を送った。メナヘム・ベギンら政府への抵抗勢力や宗教政党は、ドイツに対する厳正な態度を求め、西ドイツとの外交関係や、イスラエル製機関銃ウージーを西ドイツへ売り渡す取引をも持ち出して非難した。ドイツとの関係維持を狙うベン=グリオンはエジプトにいるドイツ人科学者もミサイルも、脅威になるほどの危険は無いと主張した。しかしその後モサドの工作員のウォルフガング・ロッツらによる工作よって、これらのドイツ人科学者がドイツに戻るように仕向けられた。
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