西ドイツとの再統一とは? わかりやすく解説

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西ドイツとの再統一(1989–1990)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:04 UTC 版)

ドイツ民主共和国」の記事における「西ドイツとの再統一(19891990)」の解説

崩壊直前総辞職したヴィリー・シュトフ政権に代わって成立11月13日)したハンス・モドロウ政権は、円卓会議国民との対話行い政治民主化シュタージ解体進め12月にはSED国家対す指導規定した憲法第1条規定削除した。しかし、壁が崩壊した後も出国者は1日2000人を超え東ドイツマルク暴落し、元々疲弊していた東ドイツ経済崩壊していった。月曜デモ参加者スローガンは、かつて国家権力挑発するときに使った「我々が国民だ(ドイツ語版)!」(独: Wir sind das Volk!)から、西ドイツとの再統一を訴える「我々はひとつの国民だ(ドイツ語版)!」(独: Wir sind ein Volk!)に変わっていった。 西ドイツキリスト教民主同盟支援受けたドイツのための連立ドイツ語版)が1990年3月18日自由選挙勝利すると、再統一への方針決まった。初の自由選挙就任したロタール・デメジエール連立政権は、第三次ヘルムート・コール内閣からの支援を受け、西ドイツ基本法第23条基づいて東ドイツドイツ連邦共和国へと加盟させることを決定した通貨経済・社会統合措置1990年7月1日施行し8月31日には統一条約調印9月12日第二次世界大戦戦勝国とのドイツ最終規定条約調印したあと、東ドイツ1990年10月3日ドイツ連邦共和国へと吸収された。また1991年3月15日発効されドイツ最終規定条約では統一ドイツにおいて旧東ドイツ地域における外国軍駐留核兵器配備および運搬禁じられた。 詳細は「ドイツ再統一」を参照

※この「西ドイツとの再統一(1989–1990)」の解説は、「ドイツ民主共和国」の解説の一部です。
「西ドイツとの再統一(1989–1990)」を含む「ドイツ民主共和国」の記事については、「ドイツ民主共和国」の概要を参照ください。

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