西ドイツの反応
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「スターリン・ノート」の記事における「西ドイツの反応」の解説
コンラート・アデナウアー首相の優先事項は明確であった。それは、ドイツ連邦共和国を西側に統合(ドイツ語版)する事で、ドイツの再統一は、抽象的で長期的な目標であり、現実には期待できない物であった。「自由で統一されたヨーロッパにおけるドイツ統一の回復」は、確かに彼の政権の第一の目標と考えられていたが、ドイツ連邦共和国が西欧に統合された後でなければ再統一はできないという意味であった。 彼の考えは、統一と同時に東欧も変化を遂げなければならないという物だった。ドイツ連邦共和国の西欧同盟への統合が成功しなければ、西ドイツは必然的にソ連の大混乱に巻き込まれる事になる。 このため、3月の文書は単なる妨害の火種であり、その目的は「ドイツ連邦共和国を自由のない衛星国の状態に引きずり落とし、欧州の統一を不可能にする事」と見なした。そのため、彼は西側諸国とのすべての交渉を「あたかも文書が存在しなかったかのように」継続したいと考えた。スターリンの申し出は本気ではないというアデナウアーの見解は広く共有されていたが、覚書を受けた時の反応については意見が分かれた。ヤコブ・カイザー(ドイツ語版)(CDU)は両独関係大臣(ドイツ語版)として「橋渡し論」による東西の仲介役としてのドイツを推し進めていた。自由選挙の要求とポツダム国境の拒否についてはアデナウアーに同意したが、それにもかかわらず、彼はソ連の提案を非常に真剣に受け止めていた。1952年3月12日のラジオ演説で、カイザーはこの覚書にかなりの政治的意義があるとしながらも、「最も慎重な予備知識」を持って見るべきだとの見解を示した。統一の機会を逃さない様、ソ連の提案を慎重に検討するよう要求した。 他の閣僚や自由民主党(FDP)の一部も同様に、連邦共和国の態度のために再統一が失敗したという印象を与えない様に、スターリンの申し出を少なくとも真剣に検討すべきだという意見を持っていた。そのような検討をすれば、スターリンが自分の申し出を真剣には考えていない事がすぐに明らかになるだろうし、彼の狙いもわかるだろう。 一方、アデナウアーは「検討」にはデメリットしかないと考えていた。 ソ連が会議を長引かせる可能性がある一方、西側の統合は当面先送りになるだろう。最終的に西側がやる気をなくして会議から離れる事になれば、スターリンは会談の失敗を西側の責任にする事ができる。 第二次世界大戦後の状況では、連邦共和国が信頼できるパートナーとして西側に扱われる事が不可欠であり、申し出に対する回答はこの印象を壊す(いわゆるラパッロ複合体)。 スターリンが提案した会議には西ドイツに加えて東ドイツも参加する事になる。そうなれば東ドイツは西側に認知され、スターリンは何も譲歩せずに目標を達成する事になる。 歴史家のアンドレアス・ヒルグルーバーによると、アデナウアーは中立化されたドイツを恐れていたという。東西冷戦の困難な状況の中で、主体的に行動する「ドイツ人」を信用していなかったのである。アデナウアーはこの恐怖を西側諸国と共有していた。また、アデナウアーはドイツだけでは(核武装した)ソ連から身を守る事ができないという理由から中立政策に反対していた。 それでも、アデナウアーは独裁者スターリンの申し出は真剣な物ではなく、自由選挙の要求に関して譲れないという点では閣僚、野党ドイツ社会民主党(SPD)、一般国民と意見が一致していた。しかし、連邦共和国はドイツの分断について何もできないという不安を抱いた。
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