西匈奴の「都頼水」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 06:59 UTC 版)
前漢時代のタラス川流域は遊牧騎馬民族による大帝国匈奴の支配するところであったが、後継者争いによって内紛が生じ、紀元前54年には東匈奴の呼韓邪単于と、その兄で堅昆(キルギス)に移った西匈奴の郅支単于とに分裂して互いに対立した。呼韓邪単于は漢に入朝し、自ら臣と名乗ったため、漢王朝は王昭君を単于に嫁がせた。郅支単于も当初は漢に入朝したが、のちに漢に対抗し、周辺の諸民族を攻めて併合した。康居の王とも婚姻関係を結んだが、やがて康居が礼を尽くさなくなったと感じると、娶った康居の王女や貴人、人民数百人を殺害し、死体を切断して都頼水に棄てた。また、史料には、郅支単于は人民を徴収して都頼水のほとりに城を築造させたと記される。この「都頼水」はタラス川に比定される。
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