西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説とは? わかりやすく解説

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西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:05 UTC 版)

法華経」の記事における「西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説」の解説

現行の法華経二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想内容から見て少々異質である。そのため嘱累品までが本来の『法華経』で、あとは後世付加部分考え研究者もいる。 中村元は「嘱累品第二十二までの部分西暦40年から220年の間に成立した」と推定した上限40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる金融行って利息取っていた長者臨終様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代なければこのような一人富豪であるに留まらず国王等畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。この点については、渡辺照宏も、「50年流浪した後に20年掃除夫だった男が実は長者後継者であると宣言される様子から、古来インド社会バラモン中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケース現実味乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響少な社会環境なければならない」と述べている。下限について220年であると中村元推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造盛衰である。考古学的な遺物から見てストゥーパ建造最盛期クシャーナ朝のヴァースデーヴァ王の時代で、これ以降急激に衰退している。 『法華経』の成立地域について、中村元植木雅俊西北インド説を主張している。『法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺多数出土していること、方便品登場するヤク法師品の井戸掘り描写など自然環境西北インド的であること、授記なされる理想仏国土きまって平地であること(これはインド西北部山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタン出土する立像類似した描写があること、など、数々状況証拠から、『法華経』はインド東部ガンジス河流域低地ではなくインド西北部高地成立した考えるのが自然であるとする説である。

※この「西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説」の解説は、「法華経」の解説の一部です。
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