西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説
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「法華経」の記事における「西北インドで西暦40年~220年ごろに成立したとする説」の解説
現行の『法華経』二十八品のうち、嘱累品第二十二までと、薬王菩薩本事品第二十三から以下の部分は、思想や内容から見て少々異質である。そのため嘱累品までが本来の『法華経』で、あとは後世の付加部分と考える研究者もいる。 中村元は「嘱累品第二十二までの部分は西暦40年から220年の間に成立した」と推定した。上限の40年については、信解品の《長者窮子の譬喩》に見られる、金融を行って利息を取っていた長者の臨終の様子から、「貨幣経済の非常に発達した時代でなければ、このような一人富豪であるに留まらず国王等を畏怖駆使せしめるような資本家はでてこないので、法華経が成立した年代の上限は西暦40年である」と推察した。この点については、渡辺照宏も、「50年間流浪した後に20年間掃除夫だった男が実は長者の後継者であると宣言される様子から、古来インド社会はバラモンを中心とした強固なカースト制度があり、たとえ譬喩であってもこうしたケースは現実味が乏しく、もし考え得るとすればバラモン文化の影響が少ない社会環境でなければならない」と述べている。下限について220年であると中村元が推定する理由は、『法華経』に頻出するストゥーパ建造の盛衰である。考古学的な遺物から見て、ストゥーパ建造の最盛期はクシャーナ朝のヴァースデーヴァ王の時代で、これ以降は急激に衰退している。 『法華経』の成立地域について、中村元や植木雅俊は西北インド説を主張している。『法華経』の守護神である鬼子母神の像はガンダーラ周辺で多数出土していること、方便品に登場するヤクや法師品の井戸掘りの描写など自然環境も西北インド的であること、授記がなされる理想の仏国土はきまって平地であること(これはインド西北部の山岳地帯の生活の苦労の裏返しであると考えられる)、妙荘厳王品にアフガニスタンで出土する立像と類似した描写があること、など、数々の状況証拠から、『法華経』はインド東部のガンジス河流域の低地ではなく、インド西北部の高地で成立したと考えるのが自然であるとする説である。
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