強まる日本側からの圧力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「強まる日本側からの圧力」の解説
15世紀から16世紀前半にかけて島津本宗家は著しく弱体化していた。領国各地には有力な分家、国人領主がいて、混乱した状態が続いていた。この頃、琉球と島津家の関係は琉球側に優位であった。16世紀半ばになって島津貴久がようやく混乱を収拾し始め、1570年代に入ると領国の再統一に成功する。領国の再統一を成し遂げた島津氏の勢力は更に九州全土を席巻する勢いとなった。こうなると島津側は琉球に対しても次第に高姿勢で臨むようになっていく。 しかし1587年、島津氏は豊臣秀吉の九州平定の結果、秀吉に臣従を余儀なくされる。秀吉は武力行使をちらつかせながら琉球に服従を要求し、1591年には朝鮮、明の征服のために要する兵糧米の供出を命じた。琉球側は秀吉が要求する半量を供出した。しかし残る半量については島津側からの催促があったものの国内の窮乏を理由に断っている。その一方で琉球は明に日本の、特に秀吉の朝鮮、明の征服構想についての情報を提供していた。 1598年の秀吉の没後、徳川家康が権力を引き継いでいくことになる。家康の政治的な課題のひとつが明と朝鮮との関係改善であった。中でも明との貿易再開に対する期待は大きかった。家康は室町時代の勘合貿易の復活、ないしは互市のような形で貿易を行うことを考えていた。家康は琉球を通じて明側と交渉することを考えた。1606年には日明の互市を琉球を舞台に行う構想を薩摩側を通して琉球に伝えている。 一方、薩摩側には切実な問題が起きていた。島津氏内では家中の統制が十分に取れず、しかも江戸城築城のお手伝い等で出費も嵩み、厳しい財政難に直面していたのである。この財政難を打開すべく、琉球に侵攻して奄美大島等を割譲させることをもくろんだのである。1606年、江戸幕府は薩摩側からの琉球侵攻の要求を認めたが、あくまでも琉球を通じて明側と貿易交渉を行うことが先決で、それが上手くいかない場合に侵攻を許可するというスタンスであった。 琉球としても幕府や薩摩藩の要求を受けて対策を講じようとしていた。明との交渉を行ったのである。1606年には尚寧の冊封のために冊封使夏子陽が来琉した。琉球側は夏子陽に薩摩藩からの、領内への明の商船来航を願う書状を渡し、更に琉球側は明に中国商船の琉球への渡航許可を要請した。これは琉球を日明貿易のハブとする構想であった。しかし文禄・慶長の役からまだ日も浅く、明側の日本に対する不信感は拭い難かった。冊封使夏子陽は琉球側に対して日本との通商の厳禁を命じ、交渉は失敗に終わった。なお夏子陽は1606年の琉球の現状について、多くの日本人が我が物顔にふるまっていて、近々琉球は日本にやられてしまうだろうとの感想を述べている。 1607年、琉球は更に使者を明に派遣して、改めて中国商船の琉球への渡航許可を求めた。しかしやはり明は琉球側の願いを聞き入れようとはしなかった。こうして外交交渉で局面を打開しようとした琉球の努力は実らず、1609年の琉球侵攻を迎えることになった。
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