強まる軋轢とは? わかりやすく解説

強まる軋轢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「強まる軋轢」の解説

宝暦7年6月11日1757年7月26日)、駕籠訴人の前谷村定次郎切立四郎の名で々に回状回った回状では殿様農民の敵は寝者であり、寝者の亭主子どもはもちろん、家来であっても決し挨拶してならないとし、同じ農民同士ありながら一揆勢の立者と反一揆勢の寝者との間の厳し対立示したものであった。またによっては寝者と交際したことが判明した場合罰金徴収することを取り決めたこのような情勢下、宝暦7年1757年6月には、反一揆勢である寝者の側でも、強固な寝者同士結束固めるために駕籠訴仲間加入連署状という証文交わされる事態となり、立者と寝者の対立エスカレートしていった。ただ、郡上郡内の立者、寝者間の対立激化していたが、一揆勢の立者中でも活動消極的な人たちがあり、寝者も駕籠訴仲間加入連署状を取り交わした強固な一揆派から、一揆そのもの関心が薄い人たちまで様々である。その他立者、寝者の中立立場を取る「中人」、更には立者、寝者双方に好を通じる「両舌者」という人もいた。そして一揆勢に有利な情勢になると立者増え逆に藩の締め付け厳しくなるなど一揆勢が困難な課題直面すると寝者が増加するなど、立者、寝者は決し固定的なものではなくその時々の情勢によって流動的であった。また立者、寝者にも深入りせずとして中立立場堅持した正ヶ洞のような存在もあった。 そして一揆勢から金銭要求受けた上に所有する田畑収穫物取り上げられていた町方は、郡上藩側から働きかけもあって、江戸で訴え起こすことを計画した結局宝暦7年1757年7月町方村方の代表が藩役人に連れられて江戸向かい郡上藩金森頼錦親族でもあった幕府寺社奉行本多忠央ところへ向かい訴訟について相談した。しかし本多忠央から、藩のやり方良くないせいで郡上藩がらみの訴訟頻発しているのだから、これ以上訴えなど起こさぬ方が良いなどと忠告されたこともあり、一揆勢に対す訴訟不発終わった

※この「強まる軋轢」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「強まる軋轢」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。

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