強まる軋轢
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宝暦7年6月11日(1757年7月26日)、駕籠訴人の前谷村定次郎、切立村喜四郎の名で村々に回状が回った。回状では殿様、農民の敵は寝者であり、寝者の亭主子どもはもちろん、家来であっても決して挨拶してはならないとし、同じ農民同士でありながら、一揆勢の立者と反一揆勢の寝者との間の厳しい対立を示したものであった。また村によっては寝者と交際したことが判明した場合、罰金を徴収することを取り決めた。 このような情勢下、宝暦7年(1757年)6月には、反一揆勢である寝者の側でも、強固な寝者同士の結束を固めるために駕籠訴仲間不加入連署状という証文が交わされる事態となり、立者と寝者の対立はエスカレートしていった。ただ、郡上郡内の立者、寝者間の対立は激化していたが、一揆勢の立者の中でも活動に消極的な人たちがあり、寝者も駕籠訴仲間不加入連署状を取り交わした強固な反一揆派から、一揆そのものに関心が薄い人たちまで様々である。その他立者、寝者の中立の立場を取る「中人」、更には立者、寝者双方に好を通じる「両舌者」という人もいた。そして一揆勢に有利な情勢になると立者が増え、逆に藩の締め付けが厳しくなるなど一揆勢が困難な課題に直面すると寝者が増加するなど、立者、寝者は決して固定的なものではなく、その時々の情勢によって流動的であった。また立者、寝者にも深入りせず村として中立の立場を堅持した正ヶ洞村のような存在もあった。 そして一揆勢から金銭要求を受けた上に所有する田畑の収穫物を取り上げられていた町方は、郡上藩側からの働きかけもあって、江戸で訴えを起こすことを計画した。結局宝暦7年(1757年)7月、町方と村方の代表が藩役人に連れられて江戸に向かい、郡上藩主金森頼錦の親族でもあった幕府寺社奉行の本多忠央のところへ向かい、訴訟について相談した。しかし本多忠央から、藩のやり方が良くないせいで郡上藩がらみの訴訟が頻発しているのだから、これ以上訴えなど起こさぬ方が良いなどと忠告されたこともあり、一揆勢に対する訴訟は不発に終わった。
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