福澤諭吉と朝鮮との関係
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福澤が創設した慶應義塾には近代における朝鮮からの正式な留学生の第1号として兪吉濬が1881年(明治14年)6月以来学んでおり、福澤は兪を通じて朝鮮への理解を深め、諺文(ハングル)使用が朝鮮近代化と民衆の教化に必要と考えていた。 1881年(明治14年)に訪日した開化派の金玉均とも親交を結んだ福澤は『時事小言』を発表し、朝鮮の文化的誘導の必要性を主張した。さらに、1882年(明治15年)7月23日に発生し日本公使館が襲撃され日本人が殺害された壬午事変の事後処理のため同年9月に訪日した朴泳孝を正使とする修信使が福澤を訪問した。日本の文物を視察しながら朝鮮近代化の方策を模索していた金玉均を含む修信使一行は福澤にこれを推進するための要員斡旋を依頼した。同年9月8日付け『時事新報』は社説「朝鮮の償金五十萬圓」で「今朝鮮國をして我國と方向を一にし共に日新の文明に進ましめんとするには、大に全國の人心を一變するの法に由らざる可らず。即ち文明の新事物を輸入せしむること是なり。海港修築す可し、燈臺建設す可し、電信線を通じ、郵便法を設け、鐵道を敷き、滊船を運轉し、新學術の學校を興し、新聞紙を發行する等、一々枚擧す可からず」と報じた。福澤は朝鮮開化の具体的手段のひとつとして新聞発行に同意した修信使に慶應義塾出身の牛場卓蔵と高橋正信を学事顧問名義で斡旋するとともに、朝鮮事情調査を目的として福澤家で書生をしていた井上角五郎を同行させた。1883年(明治16年)1月11日〜13日付け『時事新報』は社説「牛場卓造君朝鮮に行く」を掲載した。また、福澤は発行する新聞に漢諺混合文の採用を強く推し、自費でハングル活字を鋳造させていた。 1883年(明治16年)1月に帰国した朴泳孝は漢城府判尹(知事)に就任し、国王高宗から漠城府主導下に新聞を発行する許可を得たものの、壬午事変後の守旧派の巻き返しにより左遷されて新聞発行は頓挫し、牛場と高橋の両名は帰国した。残った井上は統理交渉通商事務衙門協弁(外務次官)金允植の知遇を得て同年6月に外交顧問、新聞発行の主体となった博文局主任となり、10月に朝鮮近代で最初の新聞である『漢城旬報』発行にこぎ着けた。しかし、1884年(明治17年)1月30日付け第10号掲載の清国兵の横暴を諌める記事「華兵犯罪」が清国勢力に咎められ、井上は責任を取る形で辞任、帰国に追い込まれた。 日本の外務省の支持を受けて井上は同年7月に朝鮮に再渡航し、朝鮮の外務顧問と博文局主任の地位に復し、井上の離任後暫くして休刊となっていた『漢城旬報』を再刊した。しかし、12月4日に朝鮮で起きた甲申政変に清が介入し、『漢城旬報』の印刷所も焼き討ちにあって廃刊。新聞発行の支持基盤であった開化派は一掃され、井上は12月11日に朝鮮を離れた。
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