福澤諭吉と朝鮮との関係とは? わかりやすく解説

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福澤諭吉と朝鮮との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 10:19 UTC 版)

脱亜論」の記事における「福澤諭吉と朝鮮との関係」の解説

福澤創設した慶應義塾には近代における朝鮮からの正式な留学生第1号として兪吉濬1881年明治14年6月以来学んでおり、福澤は兪を通じて朝鮮への理解深め諺文ハングル使用朝鮮近代化民衆教化に必要と考えていた。 1881年明治14年)に訪日した開化派金玉均とも親交結んだ福澤は『時事小言』を発表し朝鮮の文化誘導必要性主張した。さらに、1882年明治15年7月23日発生し日本公使館襲撃され日本人殺害され壬午事変事後処理のため同年9月訪日した朴泳孝正使とする修信使福澤訪問した日本文物視察しながら朝鮮近代化方策模索していた金玉均を含む修信使一行福澤にこれを推進するための要員斡旋依頼した同年9月8日付け時事新報』は社説朝鮮償金五十萬圓」で「今朝鮮國をして我國と方向一にし共に日新文明進ましんとするには、大に全國人心一變するの法に由らざる可らず。即ち文明の新事物輸入せしむること是なり。海港修築す可し、燈臺建設す可し、電信線を通じ郵便法設け鐵道敷き、滊船を運轉し新學術の學校興し新聞紙發行する等、一々枚擧す可からず」と報じた福澤朝鮮開化具体手段ひとつとして新聞発行同意した信使慶應義塾出身牛場卓蔵高橋正信を学事顧問名義斡旋するとともに朝鮮事情調査目的として福澤家で書生をしていた井上角五郎同行させた。1883年明治16年1月11日13日付け時事新報』は社説牛場卓造朝鮮に行く」を掲載したまた、福澤発行する新聞に漢諺混合文の採用強く推し自費ハングル活字鋳造させていた。 1883年明治16年1月帰国した朴泳孝漢城府判尹(知事)に就任し国王高宗から漠城府主導下に新聞発行する許可得たものの、壬午事変後の守旧派巻き返しにより左遷され新聞発行頓挫し牛場高橋両名帰国した残った井上統理交渉通商事務衙門協弁(外務次官金允植知遇得て同年6月外交顧問新聞発行主体となった博文主任となり、10月朝鮮近代最初新聞である『漢城旬報発行にこぎ着けた。しかし、1884年明治17年1月30日付け第10号掲載清国兵の横暴諌める記事犯罪」が清国勢力咎められ井上責任を取る形で辞任帰国追い込まれた。 日本の外務省支持受けて井上同年7月朝鮮に再渡航し朝鮮外務顧問博文主任地位復し井上離任暫くして休刊となっていた『漢城旬報』を再刊した。しかし、12月4日朝鮮起きた甲申政変に清が介入し、『漢城旬報』の印刷所焼き討ちにあって廃刊新聞発行支持基盤であった開化派一掃され井上12月11日朝鮮離れた

※この「福澤諭吉と朝鮮との関係」の解説は、「脱亜論」の解説の一部です。
「福澤諭吉と朝鮮との関係」を含む「脱亜論」の記事については、「脱亜論」の概要を参照ください。

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