福澤桃介の経営参加
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明治末期の名古屋電灯では、業績の低下に不満を持つ株主によって「革新会」と称する派閥が形成され、反対に経営陣を支持する株主によって「同盟会」と称する派閥が組織されて社内の主導権争いが発生していた。この動きに関連して、1908年8月、長良川発電所建設に向けた借入金50万円を株主総会が承認したことについて、その決議の無効を求める訴訟が株主の一人から起こされた。1909年(明治42年)10月の大審院でようやく名古屋電灯が勝訴するも、訴訟中に従業員による社費横領事件が発覚し、不満をさらに高めた株主らは1908年10月に業務状況などを調査させるよう名古屋地方裁判所に訴えた。訴えは認められ、三井銀行名古屋支店長矢田績、弁護士大喜多寅之助らが検査役に選ばれて同年12月より3か月にわたって帳簿などの精査したが、経営陣による不正は無いと結論付けられた。 こうした混乱の最中、名古屋電灯では東京の実業家福澤桃介による大規模な株式買収が進んでいた。日露戦争後の株式相場で財を成した福澤は、その後各方面に投資を広げており、1907年には名古屋で石炭商を営む友人下出民義に名古屋電灯への投資を勧められていた。このときは下出の誘いを受けなかったものの、慶應義塾の先輩矢田績に検査役となった際の検査書類を見せられ経営しないかと誘われると、福澤は名古屋電灯への投資を決定する。そして1909年2月に名古屋へと赴き、下出・矢田と会って株の買収や支払い方法を打ち合わせた。同年3月から福澤は名古屋電灯の株主名簿に登場、以後買収を進め6月末までに5千株余りを持つ株主となり、翌1910年6月末には1万株を持つ筆頭株主に躍り出た。下出によれば買収資金の出所は三菱銀行であったという。 福澤の進出に対し名古屋電灯側では、まず1909年7月矢田の勧めに応じて福澤を顧問とし、次いで10月には新設の相談役に就けた。翌1910年1月の定時株主総会で福澤は取締役に選出され、5月には常務取締役となった(常務には創業者三浦恵民も在職)。この福澤の進出は既存経営陣に批判的な「革新会」側から歓迎された。 名古屋電灯の経営陣に加わった福澤であったが、株式を買収した段階では競合会社の名古屋電力が存在することを知らなかったという。当時、新興の名古屋電力と既存の名古屋電灯を比較すると、名古屋電力八百津発電所の発電力は名古屋電灯長良川発電所の約2倍、払込資本金も名古屋電力425万・名古屋電灯265万円と2倍近い差があり、名古屋電力が開業し名古屋方面への送電を始めると名古屋電灯の著しい脅威となると見られた。そこで名古屋電灯に進出した福澤は脅威を取り除くべくすぐさま名古屋電力の合併に動き出す。名古屋電力側も資金難に陥っていたため会社間の合併合意には時間がかからなかったが、反対に、名古屋電灯の株主中の反対論を抑えるのは難航した。反対派の中心となったのは士族や旧愛知電灯の株主で、合併による配当率低下を危惧していた。このため、解散する名古屋電力の資本金500万円に対し名古屋電灯側の増資を250万円に留めて名古屋電力株主への新株交付を持株2株につき1株とし、これによって生ずる差益金から将来の配当に充てる配当補充金を積み立てる、という合併条件をまとめた。 1910年8月26日の臨時株主総会にて名古屋電力の合併は可決されたが、これに続く役員増員にからみ総会は紛糾した。合併に伴う取締役3名・監査役の2名の増員が総会の議題となったが、この賛否をめぐり、福澤の進出を歓迎する革新会改め「電友会」と、福澤系の経営陣を不安視する同盟会改め「愛電会」の両陣営に株主が分裂し収拾がつかなくなったのである。対立は総会の1週間前からあり、矢田績や名古屋市長加藤重三郎らが斡旋に乗り出していたが、当日深夜になっても株主の意見が一致することはなかった。合併については同年10月28日に成立。その後取締役2名・監査役1名増員という折衷案で妥協がなり、11月の臨時株主総会で可決、兼松熙ら旧名古屋電力の役員が新任された。この総会の1週間後、福澤は常務職を兼松に譲って辞任し(取締役には留任)、一旦名古屋電灯の経営から退いた。
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