福澤幸雄関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 13:59 UTC 版)
「エドワーズ (企業)」の記事における「福澤幸雄関連」の解説
福澤幸雄の存在を「キャンティ」で知ったデザイナーが、エドワーズ創業者・倉橋一郎を紹介した。本場ヨーロピアン・スタイルを追求するエドワーズのデザインは福澤の眼鏡に叶い、20歳のころから倉橋のオフィスに出入りするようになる。倉橋はそのたびに福澤から本場欧州のファッション情報を聞き、代わりに小遣いを与えていた。1964年(昭和39年)に福澤がフランス・マニクールに渡りレース学校に学んでいた時、エドワーズは社員をヨーロッパに派遣して福澤に本場のファッション界を案内してもらっている。そういう関係の中から福澤は1967年(昭和42年)にエドワーズの中に『ボージェスト』という自分自身のブランドを持ち、デザイナーとしての活動もスタートさせた。 創業者・倉橋は、福澤幸雄の『パトロン』となった。倉橋夫人(未亡人)の佳子は『主人は才能がある若者と出会うとすぐに力を貸したがる人でした。幸雄さんも20歳の頃からよく会社に出入りしていました。それはかっこよくて素敵な若者でしたよ。』と述べる。ギリシャ人の母を持つ福澤は生まれながらにヨーロピアンの香りを持っており、格好のイメージ・モデルとなった。 エドワーズの福澤幸雄への期待を、元専務の畑埜は「幸雄には、新しい商品への意見を聞いたり欧米のファッション誌の情報をいち早く教えてもらった。本場の生の情報を送ってもらっていました」と述べ、「1964年頃、幸雄は欧米のファッション界で活躍していた歳上のファッションモデル、ピーター(松田和子)とパリで暮らしていました。私たちは欧州市場視察のためにパリに行きましたが、その任務の一つに、幸雄に給料を渡すことも含まれていました。」と証言している。 萩原健一 談「オレたちテンプターズの衣装についても、(福澤)幸雄さんはいろいろ言ってたね。テンプターズは、田辺さんが作った事務所に所属してたんだけど、他のグループサウンズ(GS)と違って、それぞれがバラバラな衣装を着ていることで、人気だったんだ。でも田辺さんは「やっぱり同じ衣装を着た方がかわいい」と言って、オレたちにも揃いの衣装を着せるようになった。それを見て幸雄さんは「お前ら、ユニフォームなんか着るんじゃないよ。なんだ、アップリケみたいなの付けて」って、オレに言うんだ。 かまやつひろし 談「幸雄は音楽やダンスの流行の情報もよく教えてくれて、それでスパイダースの前四人(堺正章、井上順、井上堯之、かまやつ)は踊るようになったんです。コスチュームも「今、ミリタリーだ」とか「全員同じ格好をしないで一人一人個性に合わせたほうがいい」とか。ボクがスパイダースに入って幸雄が死ぬまでの6年間、あの頃はそんな話ばっかりしてました。幸雄はよくレンガ色の薄汚れたレインコートを着ていて、あいつが着るとなんか格好いいんだよね。そういえば、幸雄と加橋かつみとボクでバンド作ろうなんて話もしてた。バンド名は「EXIT」。でも、一度も演奏したことはないままでした」。
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