福澤家入りとは? わかりやすく解説

福澤家入り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 16:20 UTC 版)

福澤桃介」の記事における「福澤家入り」の解説

介の慶應義塾在学1883年から1886年明治19年)までの3年間である。諭吉からの評価は「随分元気よき少年にて本塾にても餓鬼大将申した人物」(長男一太郎充て紹介より)というものであった在学中慶應義塾名物となったものに運動会があった。運動会介は駆け足が得意であったという。この運動会福澤諭吉も妻や娘を連れて見物しており、学生運動振りを見ながら娘の婿選び機会になっている噂されていた。そうした中、運動会での介の活躍諭吉の妻・錦の目に留まる当時福澤家では諭吉次女の房(ふさ)に結婚問題起きており、介は婿候補となったのである長女の里も錦に賛同し諭吉乗気になって介は房の結婚相手決定された。福澤家側は卒業後の洋行留学費用を出すという条件介を婿養子誘い介の側もこれを承諾して養子入り決定1886年12月17日付で、房との結婚前提介は福澤家へ養子入りして福澤家の人間、すなわち福澤桃介となった自身はこの養子入りについて後に自著にて、世間では諭吉介を将来有望青年思って養子にしたと思われているが実際にそうでない、と述べている。また、洋行のために養子になるのは情けないと後悔し当時は非常に残念に思ったという。福澤家に入って1887年明治20年2月2日横浜港よりアメリカ合衆国へ出発し翌月留学中義兄一太郎のいるニューヨーク州ポキプシー到着したアメリカではまず語学学校通い4月からイーストマン・ビジネス・カレッジ (Eastman Business College) に入る。同校8月卒業すると、次いでボストンにいた義兄次郎のもとへ移りボストン近郊語学学校通った。 滞米2年目1888年明治21年1月からはフィラデルフィア移り当時アメリカ最大鉄道会社であったペンシルバニア鉄道事務見習いとして入ったその後同社にあってその鉄道網乗り潰し語学勉強除いて留学というより修学旅行のようであったという。フィラデルフィア時代には留学生仲間岩崎久弥串田万蔵伊丹二郎成瀬正恭岩崎清七松方幸次郎らと交流した留学予定1890年明治23年)までであったが、結局大学学位を取ることなく予定早めて帰国することとなり、1889年明治22年11月15日横浜港帰着した帰国後の12月に房と結婚し同月23日付で戸籍上の分家の手続き済ませた

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