フィラデルフィア時代
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「チャールズ・ヤーキス」の記事における「フィラデルフィア時代」の解説
ヤーキスはフィラデルフィア近郊、ノーザン・リバティー(英語版)のクエーカーの家庭に1837年6月25日に生まれた。ヤーキスの母親は産褥熱でヤーキスが5歳の時に死亡、その直後にヤーキスの父親はクエーカー以外と結婚したことでキリスト友会から追放されている。フィラデルフィアセントラル・ハイ・スクール(英語版)の2年コースを卒業後、ヤーキスは17歳で地元の穀物ブローカーに就職した。1859年、22歳でブローカーとして独立し、フィラデルフィア取引所に参加した。 1865年までに投資銀行に業態を変更、地方債、州債、国債の販売に特化した。銀行の頭取だったヤーキスの父親のコネ、ヤーキス自身の政治的知人の活用や自らの才覚によって地域金融界や社交界で著名な存在となった。フィラデルフィア市財務官ジョセフ・マーサーの金融代理人としての職務中、ヤーキスは巨額の公金を投機的取引に投じたが、シカゴ大火による金融混乱で悲劇的失敗に終わった。債務超過に陥って市への支払いが不能になったことからヤーキスは窃盗罪に問われ、イースタン州立刑務所(英語版)に36か月収監される宣告を受けた。 収監を免れるため、ヤーキスは2人の有力なペンシルベニア州の政治家に脅迫状を送った。当初脅迫状は効果を発揮しなかったが、この政治家2人の悪評が広まり、のちの大統領ユリシーズ・グラントなどの指導的政治家がヤーキスの暴露により次期選挙に悪影響が及ぶことを恐れるようになった。ヤーキスは非難を撤回することで免責となる提案を受け、7か月服役したのちこれを受け入れて釈放された。
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フィラデルフィア時代
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「リッカルド・ムーティ」の記事における「フィラデルフィア時代」の解説
引退を考えていたユージン・オーマンディがムーティのコンサートに訪れ、その驚異的な才能に一目惚れしてムーティ招聘を働きかける。その後首席指揮者を短期間務め、正式にオーマンディの推挙により1980年、音楽監督に就任する。就任後はオーマンディが築いた「フィラデルフィア・サウンド」を踏襲しつつも、オーマンディの静に対して極めて動的、ドラマティックで熱い演奏を繰り広げて聴衆や楽員の支持を得た。EMIへの録音も盛んになり、オーマンディは私財を投じてムーティのために録音施設を建設した。晩年はPhilipsにも録音を行い、ブラームスやプロコフィエフで演奏を残した。カラヤンが他界して「ポスト・カラヤン争い」が勃発したとき、ムーティもその候補に挙がった。しかし早期に撤退を表明する。直後の1992年、激務に耐えられなくなったことを理由にフィラデルフィアを辞任した。その後数年、後任のヴォルフガング・サヴァリッシュの活躍でフィラデルフィアは好調を維持したが、次のクリストフ・エッシェンバッハ時代に低迷、そこでムーティ復帰を掲げて何度か招聘に乗り出すが失敗。代替案で桂冠指揮者への就任も打診するが辞去される。結果として数度の客演に止まり、その後の共演予定は立たなくなった。2009年3月12日、ムーティはフィラデルフィアの低迷を心配するコメントを発表した が、程なくして同楽団は破産法適用の申請を行った。
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