フィラデルフィア方面作戦とバレーフォージ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/29 06:09 UTC 版)
「ジェスロ・サムナー」の記事における「フィラデルフィア方面作戦とバレーフォージ」の解説
1777年初期、サムナーはノースカロライナ第3連隊の指揮を再度執り、北へ進軍して、フィラデルフィア方面作戦を指揮していたジョージ・ワシントン将軍の下に就いた。同年初期から中期、ニュージャージーのモリスタウンで大陸軍の本隊と宿営地に留まっていた。サムナーとその部隊は定期的に訓練し、その物資や武器を検査して修理したが、ノースカロライナ兵の持っていたマスケット銃の多くはお粗末なものだったので、結局かなりの数の銃を廃却した。サムナーとその連隊はブランディワインの戦いとジャーマンタウンの戦いに参戦した。1777年から1778年の冬はワシントンの本隊と共にバレーフォージで過ごした。 ジャーマンタウンの戦いでフランシス・ナッシュ将軍が戦死した後、その指揮していたノースカロライナ旅団は指揮する将軍が居ないままとなっていた。冬季宿営の間、ニューヨークのアレクサンダー・マクドゥガルやジョージアのラクラン・マッキントッシュがこの旅団の暫定指揮官に指名された。ノースカロライナ出身の士官達の多くは、ノースカロライナが大陸軍に提供している兵士の数に基づいて、さらに2人の准将が指名されるべきと考えていた。バレーフォージでのノースカロライナ旅団は総勢1,051名だったが、353名は病気であり、164名は任務に適した衣服も無いありさまだった。サムナー自身も1778年初期に病気になり、快復のために帰郷をせざるを得なかった。その快復期にもノースカロライナで兵士の徴募を続けた。その徴兵努力にも拘わらず、1778年2月、ノースカロライナの連隊は使える兵士が少なかったので、連隊を統合することになり、サムナーの第3連隊は第5連隊に吸収された。
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