福澤の社長就任
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名古屋電力の合併により八百津発電所の建設工事を引き継いだが、着工当初から難工事が続いていた上、名古屋電灯移行後もトラブル続きで送電を開始したのは1911年12月のことであった。工事中の1911年4月、825万円の増資を議決して資本金を1600万円とし、さらに社業の拡大に伴って常務の上に社長を置くこととして同年7月名古屋市長の加藤重三郎を迎えた。 出力4,200kWの長良川発電所に出力7,500kWの八百津発電所が加わった名古屋電灯では、大口需要の開拓に努め、主として電力供給を拡大した。しかし両発電所の建設費負担は重く財務状態はかえって悪化し、配当補充金を取り崩して配当を維持するものの1912年(明治45年)には配当率を年率12パーセントから9パーセントに引き下げざるを得なくなった。こうした業績の悪化は株主の経営陣に対する批判を強め、豊橋電気の再建や九州での電気事業で好成績を挙げていた福澤桃介の再登板を期待する声を大きくした。批判の高まりを受けて常務の三浦恵民・兼松煕は1912年6月に辞任。次いで大正改元を機に経営を一新すべきという声に押されて同年12月取締役10名と監査役6名全員が一斉に辞任し、直後の株主総会で総改選することになった。 この役員総改選に際しその指名は福澤に一任された。加藤重三郎(社長留任)や兼松煕らが再任されたほか、このとき下出民義も取締役に加わっている。翌1913年(大正2年)1月、福澤は常務に復帰した。こうして経営を握った福澤は九州電灯鉄道支配人の角田正喬を引き抜き名古屋電灯支配人に任命し、営業活動や集金方法の改善など経営改革に取り組んだ。 こうした中の1913年秋、社長の加藤重三郎、取締役の兼松煕らが大須遊廓移転にからむ疑獄事件で起訴された。加藤らは12月の第1審で有罪となった後、翌1914年の第2審で結局無罪となったが、その間、名古屋電灯では社務を執れなくなった加藤に代わって1913年9月に福澤を社長代理に指名した。その後加藤が社長を辞任したため、1914年12月、福澤が後任社長となった。福澤の昇任とともに下出も常務代理から常務となっている(1918年2月からは副社長)。福澤は社長就任後も本拠地を東京に置いたため、以後、福澤が人事・金融を担当し、下出が日常業務のほとんどを代行するという経営体制となった。
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