イギリス帝国への結びつき
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 00:32 UTC 版)
「アメリカ合衆国の植民地時代」の記事における「イギリス帝国への結びつき」の解説
各植民地は互いに大変異なってはいたが、文字通りイギリス帝国の一部のままだった。 社会的には、ボストン、ニューヨーク市、チャールストンおよびフィラデルフィアの植民地特権階級は自分達をイギリス人と考えていた。多くの者はイギリスに行ったことも無かったが、服装、ダンスおよびエチケットなどイギリスの様式を模倣した。この社会的上流階級はジョージア様式の邸宅を建て、トーマス・チッペンデールの家具デザインを真似し、啓蒙時代というヨーロッパの知性の流れに迎合した。住人の多くにとって植民地アメリカの海港都市はイギリスの都市そのものだった。 植民地の政治機構の多くはイギリスの野党指導者、特に著名なものとしてコモンウェルスマンとホイッグ党の伝統である者達が表明した共和制を採用した。当時のアメリカ人の多くは、植民地の統治制度をイギリスの憲法をモデルにしていると考え、国王は知事に相当し、イギリスの庶民院は植民地議会に、貴族院は知事諮問委員会に相当すると見なした。植民地の法典はイギリス法から直接引いてくることが多かった。実際にイギリスのコモン・ローがカナダだけでなくアメリカ合衆国全体で生き残っている。つまるところこれら政治的理想の幾つかの意味するもの、特に代議制と共和主義に関する論争がアメリカ独立に向かっていくことになった。 植民地人がイギリスと異なるというよりも類似していると考えたもう一つのポイントは、急増するイギリス商品の輸入についてだった。イギリス経済は17世紀の終わりに急激な成長を始め、18世紀半ばまでにイギリスの小さな工場が国内で消費する以上のものを生産するようになった。イギリスはその市場を北アメリカに求めたので、輸出高は1740年から1770年の間に360%の増加を見た。イギリスの商人は得意客に寛大な信用払いを提供したので、アメリカ人は大量のイギリス製品を買うようになった。ノバスコシアからジョージアまで全てのイギリス臣民が類似した製品を購入し、ある種英国化された共通の感覚を持つようになった。
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