イギリスの植民の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 08:17 UTC 版)
「ペンリス (ニューサウスウェールズ州)」の記事における「イギリスの植民の開始」の解説
現在のペンリスの地域を最初に探検したのは、ワトキン・テンチ(英語版)である。彼は、エヴァン・ネピアン卿(英語版)にちなんで、地域に流れる川をネピアン川(英語版)と名づけた。ニューサウスウェールズ植民地の第3代総督であるフィリップ・ギドリー・キング(英語版)が1804年、ダニエル・ウッドリフ(英語版)に1000エーカーの土地を与えたことが、この地区の植民の開始である。1814年、ウィリアム・コックス(英語版)がウッドリフの土地を通り抜ける形で、シドニーからブルー・マウンテンズへ至る道路を建設した。1817年には、ペンリスに法廷が建設された。1828年には、郵便局が、1844年には、聖公会の教会である聖スティーブンス教会が、1850年には、カトリックの教会である聖ニコラス教会が建設された。 ペンリスの発展には、2人の人物が大きくかかわっている。一人目が、トーマス・ジェミソン(英語版)(1752年/53年-1811年)である。彼は、1788年のファースト・フリートの乗組員の一人である。シティ・オブ・ペンリスのサバーブであるジェミソンタウンは彼の名前にちなんでいる。二人目が、トーマスの子供で、ジョン・ジェミソン(英語版)(1776年-1844年)である。1824年、ジョンは、ニューサウスウェールズ最初のジョージア建築(英語版)であるリージェントヴィル・ハウスをネピアン川を臨む場所に建設した。さらに、ジョンは、印象的な農業関連の不動産を残し、さらには、ニューサウスウェールズ州上院(英語版)の議員になった。彼が建設したリージェントヴィル・ハウスは、1868年に消失したが、建築資材の多くがペンリス周辺の建築資材として再利用された。 他に著名な人物として、バッキンガムシャーから移住したトーマス・フロスト(1862年没)と彼の妻であるサラである。サラは、サミュエル・マースデン(英語版)によって洗礼を受け、彼女の兄弟であるロバート・ロープは、オーストラリアで生まれた最初のヨーロッパ人であると評判を受けた 。ニューサウスウェールズ総督であったトーマス・ブリスベーンに陳情を重ねた結果、1822年10月13日、トーマス・フロストは、囚人の立場から解放され、ネピアン川沿いに20ヘクタールの農地と125頭の家畜を持つことが許された。「(前任の総督である)ラックラン・マッコーリーはフロストが農地を経営することを喜んでいる」とフロストは言った。フロストは、さらに20ヘクタールの土地をバサーストに保有した。フロストの墓は、よい状態でペンリスの聖スティーブンス教会に保存されている。 ネピアン川に最初に橋がかかったのは、1856年のことであるが、最初の橋は洪水で流出した。シドニーからペンリスに鉄道が延伸したのは、1863年のことであり、1865年には学校が建設された。1871年には、ペンリスは、地方公共団体(ミュニシパリティ)となり、1959年には、周辺のサバーブとともに、シティ・オブ・ペンリスを形成している。シティ・オブ・ペンリスの市役所が設けられている。
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