イギリスの武力侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/12 08:26 UTC 版)
「アフマド・オラービー」の記事における「イギリスの武力侵攻」の解説
詳細は「イギリス・エジプト戦争(英語版)」を参照 民族主義内閣の誕生でエジプト国内では各地で排外運動、反ヨーロッパ運動が盛り上がっており、ヨーロッパ人たちは自国の大使館に身の危険を訴えるようになった。 事態を危険視したフランス首相シャルル・ド・フレシネは邦人保護のためと称してアレクサンドリアに艦隊を派遣しようとイギリス首相ウィリアム・グラッドストンに呼びかけた。イギリスもこれを了承して1882年5月20日に英仏両国は艦隊をアレクサンドリア沖に送り、バールーディーとオラービーの解任をタウフィークに要求した。 タウフィークはバールーディーを解任したが、オラービーの解任は軍の反乱を招くと恐れて回避した。エジプト民衆の間にもオラービーを支持する者が多く、オラービーはヨーロッパの植民地支配に立ち向かえる唯一の人という意味で「アル・ワヒード」と呼ばれるようになった。 6月11日、アレクサンドリアで反ヨーロッパ暴動が発生し、英国領事をはじめとするヨーロッパ人50人が死傷する事件が発生した。オラービーは邦人保護を名目に英仏軍が上陸してくることを恐れ、アレクサンドリアの要塞修復にとりかかった。イギリス海軍はこの要塞修復をもってオラービーによる戦争準備と看做し、オラービーに砲台撤去を求める最後通牒を突きつけた。オラービーがこれを無視すると7月11日よりイギリス海軍はアレクサンドリア砲撃を開始した。13日にはオラービーもイギリスに宣戦布告した。副王タウフィークはイギリス側に寝返り、イギリス艦隊へ逃げ込むと「オラービーは反逆者」と宣言した。 オラービーは防衛を固めたが、フランス人外交官フェルディナン・ド・レセップスの「スエズ運河の中立を犯す国はない」という保証を信じ、この方面の防備を固めなかった。だが、グラッドストンはオラービーがスエズ運河を狙っていると疑い、この方面にイギリス陸軍を上陸させることを決定した。 一方フランス首相ド・フレシネは艦隊派遣の予算をフランス議会から拒否されたため、辞職を余儀なくされ、フランス艦隊は撤退した。結局イギリスのみでエジプト侵攻を行うこととなった。 サー・ガーネット・ヴォルズリー(英語版)将軍率いる2万人のイギリス軍が1882年8月19日にアレクサンドリアに上陸し、スエズ運河一帯を占領した。さらに9月13日にテル・エル・ケビールに駐屯する2万2000人のエジプト軍に夜襲をかけて壊滅させた(テル・エル・ケビールの戦い(英語版))。これにより無防備となったカイロは無血占領された。 以降エジプトは第一次世界大戦後までの長きにわたってイギリスの軍事支配下に堕ちた。
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