指導者退任後
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指導者退任後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 01:57 UTC 版)
1977年(昭和52年)に日立を定年退職した後は、日立の監督を退いて1978年(昭和53年)までゼネラルマネージャー(GM)を務めた。1965年(昭和40年)に始まったJSLは1試合平均7,000人以上の観客を集める時期もあったが、1977年には1試合平均2,000人以下まで落ち込んでいた。高橋は1979年(昭和54年)から1985年(昭和60年)までJSLの総務主事を務め、釜本邦茂の裸体をJSLのポスターに起用して世間の注目を集めた。また、JSL事務局を日本サッカー協会から独立させるなど、森健兒や木之本興三といった後にJリーグ設立に携わる事になる人材が自由に動く場を作った。自らはもっぱら日本リーグの指導者レベル向上など、地味な役割を担った。 FIFAワールドカップについて、1974年大会と1978年大会はサッカー雑誌の特派員として、1982年大会は特派員ではなく観戦ツアーの一員として現地観戦した。1986年大会は現地で取材し、1987年(昭和62年)に著書『神様はサッカー特派員』を出版した。 その後は、自身の愛称を冠したロク・フットボールクラブを設立、埼玉県南部を中心に活動しユース年代の育成に尽力。1987年にJSL2部のNTT関東サッカー部(現:大宮アルディージャ)の技術顧問を務め、1993年(平成5年)からは日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)の初代技術委員長を務めるなど、生涯にわたって技術指導を続けた。 2000年(平成12年)2月5日、東京都目黒区で肺炎により死去した。2009年、日本サッカー殿堂入りした。
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