紀州藩お抱え絵師・岩瀬広隆
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広隆が正式に紀州藩に召し抱えられた時期は不明であるが、1845年頃だと推測される。翌46年刊行の『図会』後編・和歌山補遺では、和歌山城内の様子が収録されているのが、本来軍事機密である城内を描かせたことから、藩直属のお抱え絵師になったと言える。1856年(安政3年)の『紀州家臣諸技藝員町家御用諸氏人名録』町絵師の項には、「御勘定奉行支配小普請格 岩瀬広隆彦三郎 三人フ(扶持)」と有り、藩に召し抱えられていた事が分かる。 上述の『紀州家臣諸技藝員町家御用諸氏人名録』の記述を追うと、1862年(文久2年)には、5人扶持に上がり、「町絵師」から「御絵師」に格上げになっている。晩年は、南画に傾倒している。1877年(明治10年)8月、70歳にて没す。和歌山市鈴丸丁の、帯屋伊兵衛と同じ菩提寺である萬精院に葬られた。
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