紀州流治水工法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:50 UTC 版)
こうした頼宣の治水により次第に新田開発が為されて行く様になったが、こうした治水と利水を組み合わせた総合開発に取り組んだのは第五代藩主である徳川吉宗であった。吉宗は井沢弥惣兵衛や大畑勝善を登用し、紀の川流域の総合開発に着手した。彼らの採った手法は、先ず治水を行い後に利水を行うもの、具体的には連続堤を直線化した堤防に改築して切れ目を無くし、河原と氾濫原を分離する。そして分離した氾濫原に紀の川から用水を引き、新田開発を行うというものである。この手法は「紀州流治水工法」と呼ばれるが、吉宗が江戸幕府第8代将軍に就任した後には利根川・荒川の治水・利水に採用され、見沼代用水を始めとする関東平野の大規模灌漑事業に結実して行く。 紀の川では本川に上流から小田井堰・七郷井堰・藤崎井堰・小倉井堰・六ヶ井堰・宮井堰・四ヶ井堰が建設・拡張修復され、支流の貴志川には佐々井堰・諸井堰・丸橋井堰が、安楽川には安楽川井堰が建設された。これら井堰から引かれた用水路によって氾濫原の新田開発が促進された。代表的なものとしては安田島新田(九度山町)、妙寺新田(かつらぎ町)、中島新田(岩出市)、松島新田(和歌山市)などがあり、こうした紀州流治水工法による新田開発によって1839年には約72,700石の増収を紀の川流域だけでもたらし、灌漑が可能になった耕地面積も約一万町歩(約992,000ha)に上った。この吉宗による「紀州流治水工法」こそ、後の河川総合開発事業の原点にも通じる。
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