紀州藩平塚家・幕臣平塚家とは? わかりやすく解説

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紀州藩平塚家・幕臣平塚家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 20:07 UTC 版)

平塚為広」の記事における「紀州藩平塚家・幕臣平塚家」の解説

南紀徳川史によれば平塚為広の弟である「平塚久賀為景」が紀州藩仕え、その家を為広の三男である「平塚勘兵衛重近」が養子として継いだ。ただし久賀と為広の関係については伝承錯綜している。『南紀徳川史編纂者は、「南陽語叢」という一つ史料の中で、関ヶ原戦死した平塚因幡守を「久賀の父」「久賀の兄」「久賀の舅」とまちまち記していると指摘している。 『南紀徳川史によれば久賀為景は兄である為広の3人の子五郎兵衛、熊之助、勘兵衛重近)を連れて徳川頼宣仕え寛永4年12月23日病死した。「久賀」は老人になってから名乗った号といい、和歌山城下の「南休賀町」「北休賀町」は、平塚久賀屋敷賜った場所という。『南紀徳川史』が引く「南陽語叢」が記すところによれば、因幡守の「子」である久賀は、徳川頼宣に「強いて召し呼ばれ」、和歌山に来たものの自らは奉公辞退し、「忰」の勘兵衛出仕させた。頼宣は久賀辞退認めたものの他国仕えることも許さず城下屋敷与えて住まわせた。 平塚重近は島原の乱参戦した尾藤左衛門尾藤知宣の孫)とともに原城本丸先陣切って突入し瀕死の重傷負った尾藤左衛門戦死した)。『南紀徳川史』が引く「南陽語叢」は、重近は「平塚因幡守吉就が甥」であり「逸物の末」と称えている。重近は延宝7年10月10日83歳で没し跡目は子の為好が継承500石)した。子孫代々続き平塚勘兵衛為清(300石)は御先手物頭務め弘化元年養子の為忠に家督譲った女性運動家の平塚らいてうは、この紀州藩平塚家の子孫である。らいてうの自伝元始女性太陽であったによれば、為広の「弟」である「平塚為景」が紀州藩仕えたとある。明治迎えて平塚為忠(らいてうの祖父)が東京に出、平塚定二郎(らいてうの父)は会計検査院高官になった。 重近の兄弟である五郎兵衛300石)・熊之助(100石)もそれぞれ家を立てて紀州藩仕えたが、五郎兵衛の家はのちに断絶した。熊之助の子孫は、正徳6年10月18日平塚一郎右衛門小次郎(のちの徳川宗武)の御伴として江戸城召されて幕臣300石)となり、伊賀守に叙任された。 幕府旗本平塚家は、小次郎仕えていた平塚近秀(長右衛門一郎右衛門)が、幕臣300石)となったことにはじまる。『寛政重修諸家譜によれば、近秀は病気のため勤め果たせず、子の為政家督譲って隠居させられた。『寛政重修諸家譜』に収められ旗本平塚家の家譜系図平塚近秀から記されている)によれば、為広の子の「平塚久賀」が徳川家康召し出され徳川頼宣に付けられたとある。近秀は久賀から数えて4代目という。 近秀の子平塚為政喜一郎、喜右衛門)は御小納戸頭取御先手弓頭務め伊賀守に叙せられた。 為政の子平塚為善(主膳喜右衛門)は徳川家重家治仕えて御小納戸頭取御先手鉄砲頭を務めており、伊賀守に叙されている。 為善の娘の一人将軍徳川家斉側室となり、於万の方勢真院)と呼ばれた

※この「紀州藩平塚家・幕臣平塚家」の解説は、「平塚為広」の解説の一部です。
「紀州藩平塚家・幕臣平塚家」を含む「平塚為広」の記事については、「平塚為広」の概要を参照ください。

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