紀州藩平塚家・幕臣平塚家
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「平塚為広」の記事における「紀州藩平塚家・幕臣平塚家」の解説
『南紀徳川史』によれば、平塚為広の弟である「平塚久賀為景」が紀州藩に仕え、その家を為広の三男である「平塚勘兵衛重近」が養子として継いだ。ただし久賀と為広の関係については伝承が錯綜している。『南紀徳川史』編纂者は、「南陽語叢」という一つの史料の中で、関ヶ原で戦死した平塚因幡守を「久賀の父」「久賀の兄」「久賀の舅」とまちまちに記していると指摘している。 『南紀徳川史』によれば、久賀為景は兄である為広の3人の子(五郎兵衛、熊之助、勘兵衛重近)を連れて徳川頼宣に仕え、寛永4年12月23日に病死した。「久賀」は老人になってから名乗った号といい、和歌山城下の「南休賀町」「北休賀町」は、平塚久賀が屋敷を賜った場所という。『南紀徳川史』が引く「南陽語叢」が記すところによれば、因幡守の「子」である久賀は、徳川頼宣に「強いて召し呼ばれ」、和歌山に来たものの自らは奉公を辞退し、「忰」の勘兵衛を出仕させた。頼宣は久賀の辞退を認めたものの他国に仕えることも許さず、城下に屋敷を与えて住まわせた。 平塚重近は島原の乱に参戦した。尾藤金左衛門(尾藤知宣の孫)とともに原城本丸に先陣を切って突入し、瀕死の重傷を負った(尾藤金左衛門は戦死した)。『南紀徳川史』が引く「南陽語叢」は、重近は「平塚因幡守吉就が甥」であり「逸物の末」と称えている。重近は延宝7年10月10日に83歳で没し、跡目は子の為好が継承(500石)した。子孫が代々続き、平塚勘兵衛為清(300石)は御先手物頭を務め、弘化元年に養子の為忠に家督を譲った。女性運動家の平塚らいてうは、この紀州藩平塚家の子孫である。らいてうの自伝『元始、女性は太陽であった』によれば、為広の「弟」である「平塚為景」が紀州藩に仕えたとある。明治を迎えて平塚為忠(らいてうの祖父)が東京に出、平塚定二郎(らいてうの父)は会計検査院の高官になった。 重近の兄弟である五郎兵衛(300石)・熊之助(100石)もそれぞれ家を立てて紀州藩に仕えたが、五郎兵衛の家はのちに断絶した。熊之助の子孫は、正徳6年10月18日、平塚一郎右衛門が小次郎(のちの徳川宗武)の御伴として江戸城に召されて幕臣(300石)となり、伊賀守に叙任された。 幕府旗本平塚家は、小次郎に仕えていた平塚近秀(長右衛門、一郎右衛門)が、幕臣(300石)となったことにはじまる。『寛政重修諸家譜』によれば、近秀は病気のため勤めが果たせず、子の為政に家督を譲って隠居させられた。『寛政重修諸家譜』に収められた旗本平塚家の家譜(系図は平塚近秀から記されている)によれば、為広の子の「平塚某久賀」が徳川家康に召し出されて徳川頼宣に付けられたとある。近秀は久賀から数えて4代目という。 近秀の子・平塚為政(喜一郎、喜右衛門)は御小納戸頭取・御先手弓頭を務め、伊賀守に叙せられた。 為政の子・平塚為善(主膳、喜右衛門)は徳川家重・家治に仕えて御小納戸頭取・御先手鉄砲頭を務めており、伊賀守に叙されている。 為善の娘の一人は将軍徳川家斉の側室となり、於万の方(勢真院)と呼ばれた。
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