紀州藩時代
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「実成院 (徳川家茂生母)」の記事における「紀州藩時代」の解説
文政4年(1821年)に松平六郎右衛門晋の子として生まれ、天保3年7月1日(1832年)に紀州徳川家にお次召出しとなり、側詰となり、天保5年(1834年)に中臈となって後に藩主徳川斉順の側室となる。 天保14年8月28日(1843年)に伊曾姫を出産し、同年11月24日に若年寄格となるが、天保15年(1844年)に伊曾姫は夭折する。その後、弘化2年(1845年)に斉順の正室の豊姫が、弘化3年(1846年)5月には斉順も死去する。しかし、その年のうちに江戸赤坂の紀州藩邸で菊千代(のちの慶福・家茂)を生む。俗に「紀州蜜柑に種が有る」といわれる。 しかし、そのときには既に斉順は没しており、後継の徳川斉彊の命で、菊千代の養育のため剃髪預かりになる。斉彊が没し、菊千代が斉彊を継いで数え4歳で13代藩主となり、元服して慶福と名を改め家督を継ぐと、落飾して実成院の院号を名乗った。 安政5年(1858年)、慶福が14代将軍家茂として13歳で江戸城に入ると、文久元年2月16日から18日(1861年)に実成院も将軍生母として兄の庸とともに江戸城本丸に引き取られ、大奥に入った。
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