紀州藩政下の治水・利水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 04:50 UTC 版)
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおいて本戦に参じ、戦勝後の恩賞で紀伊一国を領する事となった浅野幸長は、古くから存在していた堤防を改修して街道としていた。紀の川の治水ではこれら街道が堤防を兼ねる形で建設されていたが、到底十分なものではなかった。大坂夏の陣の後、安芸広島に転封となった浅野氏に代わり、1619年(元和5年)に南海の鎮として駿河府中より入部したのが、家康の十男・徳川頼宣である。頼宣入国により、徳川御三家の一つ紀州徳川家が成立したが、これが紀の川の河川開発の号砲ともなった。 紀州藩は南海道の鎮護を目的とし、大坂や西国を監察する役目を担っていた為居城である和歌山城を大幅に拡張する必要性が生まれた。頼宣は居城の拡張と城下の発展を図るためには紀の川の治水が不可欠と考え、嘉家作丁から地蔵の辻に至る高さ3.0m・天端幅5.0m・総延長1.7kmの堤防を建設し、補強する為にヤナギを植えた。これは「柳堤」と呼ばれ、更に地蔵の辻から八軒屋までの区間に松並木で強化した堤防を建設した。これは「松原堤」と呼ばれるが、堤に植えられたマツは敵の侵攻の際に切り倒して和歌山城の防衛に利用する事も頼宣は考えていた。また、岩出付近には「花見堤」が1626年(寛永3年)に建設されているが、名の由来はこの付近一帯に広がる桃園が、春になると見事な開花風景を見せることから付けられたといわれている。この他上流の伊都郡(現・かつらぎ町)には三代将軍・徳川家光の命により高野山大塔建築の為の貯木機能を兼ねた「上様堤」や「千間堤」が寛永~寛文年間に建設されている。
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