幕府権力の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:30 UTC 版)
吉宗は綱吉以来、譜代から不満を持たれていた側用人を廃止して、表向き老中による幕閣政治に重きを置いたように振舞った。しかし実際は御側御用取次を新設し元紀州藩士をそれに任じて実質上の側近政治を展開した。吉宗は御三家である紀州藩から将軍家を相続する際、多数の紀州藩士を幕臣として編入させていた。その数は享保10年には205名にもおよんだ。これは紀州藩上士の約25%に相当する。吉宗は紀州系の側近たちを中心として従来の幕府のしきたりに囚われない大胆な政治改革を断行した(p6,7)。 他家から将軍家を相続した吉宗は享保元年から6年ごろにかけて自身の将軍権力の確立に従事した。将軍の御膝元である江戸近隣を編成し、軍事的に固めておくことは権力基盤を強化する上できわめて重要だった。そこで吉宗は生類憐みの令によって撤廃されていた軍事調練としての側面を持つ鷹狩を復活させた。鷹狩に関する施策は見分などの名目で江戸周辺各所の実情を把握する効果もあった。同時に自らの手足となって社会の動きや幕臣・大名等の動向を把握するため、紀州藩で隠密御用を務めていた藩士たちを幕臣に取り立て将軍直属の隠密として従事させることにした。御庭番達は諸藩・遠国奉行所・代官などの動静や、幕臣たちの評判、世間の風聞などを調査し、これを「風聞書」にまとめ提出された(p6,7)。 その他、将軍の足元固めのために行ったこととして、貧病民救済を目的とした小石川養生所を設置や、火事対策として町火消しの制をもうけ、防火建築の奨励や火除地の設定などを行なった。さらには吉宗が紀州藩時代に採用していた「投書箱」の制度を応用した目安箱の設置などを行った。目安箱の設置は、捨文などによる庶民の政治批判を抑止し、将軍の元に直訴を集中させることで自身の権力強化を図ったものと今では理解されている(p6,7)。
※この「幕府権力の確立」の解説は、「享保の改革」の解説の一部です。
「幕府権力の確立」を含む「享保の改革」の記事については、「享保の改革」の概要を参照ください。
- 幕府権力の確立のページへのリンク