こいしかわ‐ようじょうしょ〔こいしかはヤウジヤウシヨ〕【小石川養生所】
小石川養生所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/10 00:07 UTC 版)
小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)は、江戸時代に幕府が江戸に設置した無料の医療施設。享保から幕末まで140年あまり貧民救済施設として機能した。
享保改革の下層民対策と養生所計画
江戸中期には農村からの人口流入により江戸の都市人口は増加し、没落した困窮者は都市下層民を形成していた。享保の改革では、江戸の防火整備や風俗取締と並んで下層民対策も主眼となっていた。
将軍徳川吉宗は享保6年(1721年)7月、日本橋に高札を立て、和田倉御門近くの評定所前に毎月2日、11日、21日の月3回、目安箱を設置することを公示していた[1]。同年12月、漢方医の小川笙船はこの目安箱を利用して施薬院の設置を嘆願する投書を行った[1]。
享保7年(1722年)正月、吉宗は笙船の上書を取り上げ、有馬氏倫に施薬院の設立を命じた[1]。亨保7年6月、有馬氏倫の命を受けた町奉行の中山時春と大岡忠相は大岡邸に笙船を呼び意見を聴取した[2][1]。
翌日、両奉行は中山出雲守組与力の満田作左衛門と大岡越前守組与力の吉田十郎兵衛を設立の事務方に当たらせた[1]。
設立計画書によれば、建築費は金210両と銀12匁、経常費は金289両と銀12匁1分8厘。人員は与力2名、同心10名、中間8名が配された。与力は入出病人の改めや総賄入用費の吟味を行い、同心のうち年寄同心は賄所総取締や諸物受払の吟味を行い、平同心は部屋の見回りや薬膳の立ち会い、錠前預かりなどを行った。中間は朝夕の病人食や看病、洗濯や門番などの雑用を担当し、女性患者は女性の中間が担当した。
養生所の開設と変遷

養生所は享保7年(1722年)12月13日に小石川薬園(現在の小石川植物園)内に開設された[1]。建物は柿葺の長屋で薬膳所が2カ所に設置され収容人数は40名であった。
小石川養生所は町奉行支配とされ、開設に尽力した小川笙船・丹治が肝煎を務め、満田と吉田が引き続き養生所与力に付いた[1]。医師ははじめ本道(内科)のみで小川ら7名が担当した。設立時の養生所医師として岡丈庵と林良適が任命され、夜間の急病に対応するための医師として木下同圓、八尾伴庵、堀長慶が任命された[1]。はじめは寄合医師・小普請医師などの幕府医師の家柄の者が治療にあたっていたが、天保14年(1843年)からは、町医者に切り替えられた。これらの町医者のなかには、養生所勤務の年功により幕府医師に取り立てられるものもあった。
当初は薬草の効能を試験することが密かな目的であるとする風評が立ち、また無宿者と同等の扱いを受けるのを嫌われ利用が滞った。そのため、翌、享保8年2月には入院の基準を緩和し、身寄りのない貧人だけでなく看病人があっても貧民であれば収容されることとし、10月には行倒人や寺社奉行支配地の貧民も収容した。また、同年7月には町名主に養生所の見学を行い風評の払拭に務めたため入院患者は増加し、以後は定数や医師の増員を随時行っている。
幕末になると、蘭方医が台頭し「医学所」と「医学館」が対立し、漢方医の権威が低下するとともに養生所の質は低下する。
明治維新により一旦は廃止されたものの医学館の管轄に移り「貧病院」と改称して存続したが、新政府の漢方医廃止の方針によって間もなく閉鎖されている。薬園とともに養生所施設は、1870年に文部省の管轄に移行され、1877年、東京帝国大学に払い下げられ、最終的には理学部に組み込まれている。
2012年(平成24年)9月19日に、「小石川植物園(御薬園跡及び養生所跡)」として国の名勝および史跡に指定された[3]。
現在、小石川植物園(正式名称は「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」)内に、当時養生所で使われていた井戸が保存されており、関東大震災の際には被災者の飲料水として大いに役立ったという[4]。
入所患者治療表
年間の入所者数の概要は下表のようであった。
年度 | 全快 | 難治 | 病死 | 願下 (自主退所) |
掟背・他 (強制退所) |
合計 |
享保11年 | 134 | 82 | 12 | 22 | 0 | 250 |
明和6年 | 141 | 30 | 14 | 68 | 3 | 256 |
天明7年 | 155 | 35 | 20 | 86 | 7 | 303 |
文政4年 | 88 | 0 | 54 | 42 | 1 | 186 |
天保3年 | 87 | 0 | 64 | 40 | 6 | 196 |
天保4年 | 66 | 0 | 46 | 36 | 13 | 161 |
安政6年 | 25 | 0 | 10 | 7 | 6 | 48 |
享保7年(1722年) -安政6年(1859年) |
16,502 | 4,250 | 3,515 | 7,183 | 832 | 32,282 |
(出典)安藤優一郎 (著)、『江戸の養生所』 (PHP新書)(2005) ISBN 978-4569641591
脚注
- ^ a b c d e f g h 山口静子. “小石川養生所初期の医療活動について”. 2020年7月21日閲覧。
- ^ 『旧幕引継書目録9 養生所之部』1967年、123頁 。
- ^ 2012年(平成24年)9月19日文部科学省告示第146号「名勝及び史跡に指定する件」
- ^ “旧養生所の井戸 - 園内案内 - 小石川植物園”. www.bg.s.u-tokyo.ac.jp. 2022年7月19日閲覧。
参考文献
- 大石学『大岡忠相 下層民対策と小石川養生所』吉川弘文館〈人物叢書 : 新装版〉、2006年。ISBN 9784642052382。
- 『旧幕引継書目録9 撰要類集細目 第1 (享保撰要類集)』国立国会図書館参考書誌部、1967年 。
- 『旧幕引継書目録10 撰要類集細目 第2 (明和撰要集,安永撰要類集)』国立国会図書館参考書誌部、1967年 。
登場する主な作品
- 小説
- 赤ひげ診療譚 - 養生所を舞台とした山本周五郎の連作短編小説。
- テレビドラマ
-
大岡越前 (テレビドラマ) - 主人公・大岡忠相(演:加藤剛)の親友・榊原伊織(演:竹脇無我)が養生所の医師である関係で、第2部(1971年5月17日から1971年11月22日)以降、最終シリーズである第15部(1998年8月24日から1999年3月15日)までと、その後作られた『大岡越前 ナショナル劇場50周年記念特別企画スペシャル』(2006年3月20日)まで定期的に登場する。
- ただし、伊織は長崎に「留学」した蘭方医なので、手術を初め蘭方の医術が前面に出ている。
- 第1部では第11話「呑舟先生はどこだ」(1970年5月25日放送)で設立されるエピソードが描かれるに留まる。この回ではナレーションで込みで「跡地である、現在の小石川植物園」の映像も流れる。
- 本作における肝入りは、初代が海野呑舟(うんのどんしゅう、演:志村喬)、2代目が榊原伊織であり、伊織が長期不在だった第6部と第14部では、新三郎(演:西郷輝彦)が代任を務めていた。なお呑舟は伊織の師、新三郎は伊織の義兄弟である。
- 伊織ら肝入りが不在の場合も他の医師や助手が登場するなとし、同作品で頻繁に登場する施設名となっている。
- 暴れん坊将軍 - 主人公が徳川吉宗である関係で、たびたび登場する。第2話で、設立の経緯と小川笙船(演:天知茂)が肝煎に就いたことが語られる。
- 大江戸捜査網 - 隠密同心・九條新太郎(演:南条弘二)が養生所の医師である関係で、彼がレギュラーを務めた期間(1981年10月3日~1984年3月31日放送)においてたびたび登場する。
関連項目
外部リンク
座標: 北緯35度43分11.3秒 東経139度44分40.5秒 / 北緯35.719806度 東経139.744583度
小石川養生所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:40 UTC 版)
「大岡越前 (ナショナル劇場) の登場人物」の記事における「小石川養生所」の解説
榊原伊織(竹脇無我) / 出演シリーズ:第6部をのぞく全作 忠相の親友。小石川養生所の医師。蘭法を学ぶためと称して長崎に留学すること少なくとも4回。医学のこととなると、馬車馬のようになり周りが見えなくなる傾向がある。その事で忠相とケンカすることもしばしば。天涯孤独。妻千春を亡くした後、独身を通しているが、結構もてるので誘惑は多い。特に志保とは公認の仲となる。 村上(榊原)千春(土田早苗) / 出演シリーズ:第1部 - 第4部 源次郎の娘。第2部最終話で伊織の妻となる。伊織とともに長崎で暮らすこと2度。第4部の終了後に病死。 海野呑舟(志村喬) / 出演シリーズ:第1部 - 第4部 小石川養生所初代筆頭医師。稀にみる名医で伊織が師と仰ぐ。長崎から江戸に出てきて町医者をしていたが、養生所設立にあたり、忠相・伊織に求められて養生所を預かることに。酒癖が悪く、忠高とケンカするほど頑固な性格である。第4部を最後に姿を消すが、第9部にて伊織の口から物故していた事が語られた。 以禰(望月真理子) / 出演シリーズ:第2部 - 第3部 お千代(沢田亜矢子) / 出演シリーズ:第4部 文吉(三ツ木清隆) / 出演シリーズ:第4部 高坂千絵(山口いづみ) / 出演シリーズ:第5部 第1話で吉宗暗殺を謀った元南町与力高坂左内(成田三樹夫)の妹で、忠相たちの計らいで養生所に勤めることになる。伊織に好意を抱いている。 工藤新吾(藤間文彦) / 出演シリーズ:第5部 結城新三郎(第6部では新三郎)(西郷輝彦) / 出演シリーズ:第6部・第14部・第15部(最終回のみ) 長崎でオランダ通事をしていた。伊織に付いて医学を学び、伊織と義兄弟の契りを交わす。「おらんだ新三」の異名をとるほどの拳法の使い手でもある。伊織の紹介で江戸に飛び、財政難に苦しむ小石川養生所の医師を任される。 第6部では町人身分の設定であり、キャラクターは演じる西郷がこれ以前の同時間枠で主演していた『江戸を斬る』における遠山金四郎の町人姿の時を彷彿とさせる江戸っ子であった。第14部以後は士分の設定に変更されている。 第14部最終話では薬の横流し疑惑で窮地に陥ったところを忠相と伊織に救われ、そのお返しとばかりに第15部の最終話では薬種問屋と結託した奥医師の罠に落ちた伊織を救った。なお、伊織と直接共演したのはこの2回のみである。 第15部の最終回におけるキャストクレジットは一般ゲスト扱いになっていた。 いね(仁和令子) / 出演シリーズ:第6部 小石川養生所助手(第2話から)。新三郎に好意を持つ。 志保(根本りつ子) / 出演シリーズ:第7部 - 第14部・最終回スペシャル 小石川養生所女医師。石見藩松平家の物産方を務める川本弥兵衛(佐野浅夫)の娘で、ヤエガキ流小太刀の腕を持ち、大奥に務めていたこともある。父が死に、忠相がその仇と吹き込まれたことから、仇討ちのため忠相の命を狙うが、逆に負傷し倒れていたところを伊織に助けられる。その後忠相への誤解もとけ、養生所で伊織に医術を学びながら働くことに。それ以来長年思い続けている伊織との関係はなかなか進展しない。ごく稀だが、伊織に代わって、お白州に出て、罪人を追い詰めることもある。 志保が剣はおろか武術を用いる描写はシリーズを追うごとになくなっていった。剣を振るったのは第9部第2回が最後である。 何度か、敵に襲われたり、自らがおとりになったりと、体を張る場面が多かった。 高木保之進(高井清史) / 出演シリーズ:第7部 - 最終回スペシャル 小石川養生所助手。登場以来長らく助手だったが、志保が退場した15部で「高木先生」と呼ばれ、医師に昇格した。士分であることが役名で明記されてからも一貫して町人髷である。 7部では伊織に「せいきち」と呼ばれていた。 医師となった15部を除き、志保や片瀬と違って往診など養生所を出ての業務に当たることはほとんど描かれない。 同様に、医療以外の場に動員されることはなかったが、第14部では唯一、借金の取り立て屋に扮する半次とともに、その子分のチンピラを芝居した。 演じる高木が大部屋俳優のため、他のゲスト大部屋俳優と一緒にクレジットされることが多かった。役名表記がなされる場合は、第7部では「養生所所員」、第8 - 10部では「高木」、第11部以後は「高木保之進」とされた。 全シリーズにわたって登場したキャラクターを除けば、初登場以来最終回最終回スペシャルまで全シリーズ登場した唯一の人物である。 菊江(弓場沙織) / 出演シリーズ:第15部 志保の後任として登場。密かに、片瀬に想いを寄せている。
※この「小石川養生所」の解説は、「大岡越前 (ナショナル劇場) の登場人物」の解説の一部です。
「小石川養生所」を含む「大岡越前 (ナショナル劇場) の登場人物」の記事については、「大岡越前 (ナショナル劇場) の登場人物」の概要を参照ください。
- 小石川養生所のページへのリンク