幕府瓦解後の樽家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/13 13:12 UTC 版)
徳川幕府が無くなった後、明治元年(1868年)9月まで、町年寄3人は旧来と同様の職務を続けていたが、後に東京府に配属させられ、さらに翌年の正月に他の町年寄らとともに免職となる。樽屋16代目の樽俊之助は、明治5年10月から、日本橋本革屋町の自宅で「皇国算術」の私塾を開き、関流の和算を教授している。 『枡 ものと人間の文化史 36』によると、樽俊之助は東京府の枡製作人となり、大蔵省の依頼で、弦鉄を廃止するべきかどうかについて意見を求められたり、枡の原器製作や円筒形枡の試作の見積もりを請負ったと書かれている。しかし、明治24年(1891年)に施行された度量衡法の免許製作者名簿には樽俊之助の名前は無く、以後枡座がどうなったかは分かっていないと記されている。 樽家の墓所は浅草蔵前4丁目の浄土宗西福寺にある。
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