幕府海軍エリートの挫折とは? わかりやすく解説

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幕府海軍エリートの挫折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:57 UTC 版)

矢田堀鴻」の記事における「幕府海軍エリートの挫折」の解説

文久元年1861年)、軍艦奉行木村芥舟によって、軍艦頭取取り立てられる。これは、海軍設立めざした軍政改革よるもので、矢田堀は、同時に頭取となった小野友五郎伴鉄太郎とともに誕生した幕府海軍中枢を担うこととなった。いわば将官として、軍艦運用乗組員訓練主導することになったのである同年12月咸臨丸によって、外国奉行水野筑後守筆頭とする幕府視察団小笠原諸島へ旅だったが、物資輸送使った千秋丸が老朽帆船であったため、年が明けてなお、千秋丸は小笠原諸島行き着けないでいた。そのため、咸臨丸一行難渋し新たに蒸気船派遣望まれた。矢田堀は自ら朝陽丸艦長となり、無事、物資届けるなど、小笠原諸島日本領土として保全するためのこの施策において、艦船運航重責果たした文久2年1862年)は、幕府外交において多難な年だった。坂下門外の変生麦事件起こり国内攘夷感情沸騰する中、イギリスはじめとする諸外国との折衝困難をきわめる生まれたばかりの幕府海軍は、艦船とそれを運用する人員の不足に苦闘しつつ、目前課題対応する必用があった。前年から引き続いた小笠原諸島開拓船舶安全運航のための沿岸測量などに従事する一方この年榎本武揚はじめとする士官級から水夫までを、オランダ留学送り出した。さらにこの年暮れから翌年にかけては、将軍後見職となった一橋慶喜上洛し、生麦事件賠償問題での緊急連絡や、イギリスとの対応に、数少ない幕府軍艦は度重なる出動求められ矢田堀は多忙きわめた文久3年1863年3月軍艦奉行並となる。しかし、これまで幕府海軍中心になってきた木村芥舟は、すでに軍艦奉行辞していた上、先に軍艦奉行となっていた勝海舟は、咸臨丸での渡米後しばらく海軍離れていたこともあって、海軍中枢メンバー折り合い悪かった。さらに翌元治元年1864年)、軍艦奉行となった勝海舟は、神戸海軍操練所設立してこれまでの幕府海軍はまったくちがう方向指向した。この操練所には反幕府色合いを持つ諸藩生徒多かったがために、禁門の変長州藩朝敵となった後、勝は罷免され、その巻き添え食った形で、矢田堀もお役御免となった

※この「幕府海軍エリートの挫折」の解説は、「矢田堀鴻」の解説の一部です。
「幕府海軍エリートの挫折」を含む「矢田堀鴻」の記事については、「矢田堀鴻」の概要を参照ください。

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