幕府海軍エリートの挫折
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文久元年(1861年)、軍艦奉行・木村芥舟によって、軍艦頭取に取り立てられる。これは、海軍設立をめざした軍政改革によるもので、矢田堀は、同時に頭取となった小野友五郎、伴鉄太郎とともに、誕生した幕府海軍の中枢を担うこととなった。いわば将官として、軍艦の運用や乗組員の訓練を主導することになったのである。 同年12月、咸臨丸によって、外国奉行・水野筑後守を筆頭とする幕府の視察団が小笠原諸島へ旅だったが、物資輸送に使った千秋丸が老朽帆船であったため、年が明けてなお、千秋丸は小笠原諸島に行き着けないでいた。そのため、咸臨丸一行は難渋し、新たに蒸気船の派遣が望まれた。矢田堀は自ら朝陽丸艦長となり、無事、物資を届けるなど、小笠原諸島を日本領土として保全するためのこの施策において、艦船運航の重責を果たした。 文久2年(1862年)は、幕府外交において多難な年だった。坂下門外の変、生麦事件が起こり、国内に攘夷感情が沸騰する中、イギリスをはじめとする諸外国との折衝は困難をきわめる。生まれたばかりの幕府海軍は、艦船とそれを運用する人員の不足に苦闘しつつ、目前の課題に対応する必用があった。前年から引き続いた小笠原諸島の開拓、船舶安全運航のための沿岸測量などに従事する一方、この年、榎本武揚をはじめとする士官級から水夫までを、オランダ留学に送り出した。さらにこの年の暮れから翌年にかけては、将軍後見職となった一橋慶喜が上洛し、生麦事件賠償問題での緊急連絡や、イギリスとの対応に、数少ない幕府軍艦は度重なる出動を求められ、矢田堀は多忙をきわめた。 文久3年(1863年)3月、軍艦奉行並となる。しかし、これまで幕府海軍の中心になってきた木村芥舟は、すでに軍艦奉行を辞していた上、先に軍艦奉行並となっていた勝海舟は、咸臨丸での渡米後しばらく海軍を離れていたこともあって、海軍中枢メンバーと折り合いが悪かった。さらに翌元治元年(1864年)、軍艦奉行となった勝海舟は、神戸海軍操練所を設立して、これまでの幕府海軍とはまったくちがう方向を指向した。この操練所には反幕府の色合いを持つ諸藩生徒も多かったがために、禁門の変で長州藩が朝敵となった後、勝は罷免され、その巻き添えを食った形で、矢田堀もお役御免となった。
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