オランダ留学
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「開陽丸#発注」も参照 1861年(文久元年)11月、幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・内田正雄・澤太郎左衛門・赤松則良・田口俊平・津田真道・西周をアメリカへ留学させることとした。しかし、南北戦争の拡大によりアメリカ側が断ったため、翌1862年(文久2年)3月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。 同年6月18日、留学生一行は咸臨丸で品川沖から出発。途中、榎本、沢、赤松、内田が麻疹に感染したため下田で療養し、8月23日長崎に到着。9月11日、オランダ船カリップス号で長崎を出航、バタビアへ向かう。ジャワ島北方沖で暴風雨に遭い、船が座礁し無人島へ漂着するが、救出されてバタビアで客船テルナーテ号に乗り換える。セントヘレナ島でナポレオンの寓居跡などを訪ねた後、1863年(文久3年)4月18日、オランダ・ロッテルダムに到着した。オランダでは当時海軍大臣となっていたカッテンディーケやポンペの世話になった。榎本はハーグで下宿し、船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法を学んだ。 1864年(元治元年)2月から3月にかけ、赤松則良とともに第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を観戦武官として見学した。プロイセン・オーストリア軍の戦線を見学した後、デンマークに渡り、同軍の戦線を見学した。その後、エッセンのクルップ本社を訪れ、アルフレート・クルップと面会した。また、フランスが幕府に軍艦建造、購入を提案したことを受け、内田とパリへ赴き、フランス海軍と交渉したほか、赤松とイギリスを旅行、造船所や機械工場、鉱山などを視察した。 1866年(慶応2年)7月17日に開陽丸が竣工し、同年10月25日、榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダのフリシンゲン港を出発、リオデジャネイロ、アンボイナを経由して、1867年(慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。 5月10日に幕府に召し出され、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる。7月8日に軍艦頭並 となり、布衣を許される。9月19日に軍艦頭となり、和泉守を名乗る。同年、オランダ留学生仲間の林研海の妹(奥医師・林洞海の長女)・たつと結婚した。
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オランダ留学
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文久2年(1863年)幕府海軍がオランダ留学団を派遣する際、航海用クロノメーターの製作技術を学ぶため一段に加えられた。船大工上田寅吉とライデン市レーベンダール(オランダ語版)346番地(現・27番地)に同居し、ライデン大学教授フレデリク・カイセルに天文学、ヨハン・ヨーゼフ・ホフマンにオランダ語を学んだ後、1864年9月3日(西暦)アムステルダム市トーレン・ステーヒ381番地(現7番地)に移り、アンドレアス・ホーヴゥ(オランダ語版)、アブラハム・ファン・エムデン時計店で時計製作を学んだ。 慶応2年(1866年)10月25日開陽丸に乗り、慶応3年(1867年)3月26日横浜港に帰国した。
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