ピンギタン解禁後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:27 UTC 版)
当方ラデン・アジェン・カルティニ。ジュパラ知事の娘。当年何才云々。ペン・フレンドを求む。同世代の若いオランダ婦人、現在ヨーロッパ各地で新時代に向って進行している民主主義的動向に関心を持つ人を希望する。 カルティニ 1898年5月2日にカルティニはピンギタンを解かれた。カルティニはスマランで行われたオランダのウィルヘルミナ女王の戴冠祝賀式に参列した。同年、カルティニはオランダで発行されている女性向け雑誌に文通相手を求める手紙を送り、アムステルダムに住むオランダ人女性であり、社会民主労働党(英語版)の党員として活動していたエステレ・ゼーハンデラールと親交を結ぶこととなった。 カルティニは1900年頃から、オランダへ留学し、その後ジャワに戻って貴族の娘たちのために寄宿学校を設立することか、バタヴィアの医学校に通って医者になることを希望していた。1900年8月、カルティニは植民地政府教育省長官であるアベンダノン夫妻と面会した。これによってカルティニとアベンダノン夫人との交友関係が始まった。1か月後、カルティニはバタヴィアに招かれた。そこでアベンダノンからバタヴィアの医学校に通うことの了承を得た。ジュパラに戻ったカルティニは父に医学校に通う許可を求めたが、父はこれに対して難色を示した。しかし、寄宿学校の教師になることには進んで賛成した。 1900年11月、アベンダノンはジャワの各県の知事に対して女子学校の設立の構想を示し、意見を募った。この中にはカルティニが希望していた「中等教育を終えた貴族階級女子のための寄宿舎付き高等学院」が含まれていた。しかし、この構想は各県のオランダ人理事官やジャワ人知事から強く反対され、翌年1901年の6月には頓挫した。そこでアベンダノンはカルティニのためにバタヴィアのヨーロッパ人学校で学べるように奨学金を確保したが、カルティニの父が反対したために入学は叶わなかった。 1902年、カルティニは社会民主主義労働党の党首であったファン・コルとジュパラで会った。これによってカルティニとファン・コルとの交友が始まった。カルティニはファン・コルに対してオランダ留学の希望を伝えた。オランダで教育学を学び、ジャワに帰ってから女子寄宿学校を開くというカルティニの目標を聞いたファン・コルは、彼女のために学費をオランダ政府から支給させるよう努力すると請け負った。また、カルティニの父母を説得してオランダ留学の許可を出させた。オランダに帰ったファン・コルは下院においてカルティニのオランダ留学のための学費供与を求める演説を行った。これに対して植民地大臣のA・W・F・イデンブルフは特例として学費供与に同意した。 カルティニがオランダ行きの召喚状を待っていたところ、アベンダノン夫人がカルティニに対し、留学を思いとどまるよう説得しに訪れた。アベンダノンがこのように説得を行った理由について、スロト (1982)は、オランダ領東インドでの不行き届きや欠陥がカルティニを通してオランダ本国で広まることを懸念していたためであると推測している。カルティニは彼女の説得を受け入れ、1903年初め、オランダ留学を辞退した。カルティニがアベンダノン夫人の説得を受け入れて留学を辞退した理由についてスロト (1982)は、カルティニがアベンダノン夫妻を両親のように思っており、彼らを信じきっていたためであるほか、アベンダノン夫人が突然訪れたため説得に対する何の準備も出来なかったためであるとしている。 1903年2月にはカルティニは病に倒れた。病は1か月いっぱい続き、その間、彼女は一通の手紙も出せなかった。3月になり体力が回復した彼女はすぐに活動を再開した。6月、カルティニはジュパラの県知事邸に近所の女子のための学校を開いた。これは県知事邸の裏に黒板と机、椅子を置いただけの私塾のようなものであったが、オランダ領東インド初のジャワ人女子学校であった。学校は週に4日、8時から12時まで開かれた。生徒は読み書きや手芸、料理の授業を受けた。こうしたカリキュラムは学校の教育課程にのっとったものではなく、カルティニ独自のものであった。
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