徳山藩3代藩主
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就隆は晩年の十数年間江戸に滞留して直接政務を執れず、元賢は幼少で封を継いでいたため、元次が藩主となった頃は高禄家臣の権勢が強くなっていた。そこで翌元禄4年(1691年)6月25日に藩主として初めて徳山に入部した元次は、藩政改革として衣類定や家中諸法度といった法制を整備するとともに、藩主の実権強化に乗り出した。手始めとして、同年7月28日、萩藩からの付家老で1300石を知行する次席家老の神村隆忠を、妻が百姓家の裏山から木を5本盗んだという理由により閉門に処し、10月25日には知行のうち600石を召し上げた上で隆忠を隠居させた。これによって12月には神村家の一族は追われるように徳山を立ち退いて広島へと移り、徳山藩次席家老の神村家は断絶した。同じく萩藩からの付家老で1700石を知行する筆頭家老の桂賢恒も元禄6年(1693年)12月に隠居させられ、徳山藩筆頭家老の桂家も断絶することとなる。元次が桂・神村の両家を断絶させた理由として、『徳山略記』では、藩主となる以前の元次に対して同輩以下の扱いをしていたことや、毛利匡英擁立を図ったことを挙げている。元次が藩主就任早々、萩藩からの付家老の家を断絶させたことは、付家老を通じて徳山藩へ意向を反映させようとした萩藩に対する拒絶姿勢を示すものであった。 元次は、かつて『塩鉄論』を読んで、この書が経国済民に有益であると知り、かねて私淑していた京都の伊藤仁斎の子・伊藤東涯に依頼して、訓点を加えて世に刊行した。また、宇都宮遯庵・桂方直・長沼玄珍・林義端ら当代一流の学者を招き、優遇した。藩政にも大いに文教を取り入れ、就隆以来の制度を整え、徳山の本町筋の町名を定め、城下町の発展にも種々画策するところがあった。居館の傍らには学問所を兼ねた遊息の場として棲息堂を建て、また松屋の亭を設け、「松屋十八景」を選んだ。また、自ら遠石八幡宮と遠石町のことを叙して、『遠石記』を作り、桂方直に『松屋十八景記』、長沼玄珍に『徳山府記』を作らせ、更に関係の詩文を集めて『徳山名勝』及び『徳山雑吟』を刊行した。 折りしも、本家萩藩において藩主毛利吉広が死去し、輝元系が断絶した際に、血筋的には最も吉広に近かったが、家臣永井氏の養子となって毛利氏から外れていた時期があったために後継者候補から外され、秀元系の吉元が藩主となった。これ以前、元賢が死去した際に長府藩が徳山藩主の後継者に秀元系の人物を押し込もうとしていたこともあり、徳山藩と秀元系の長府藩や萩藩との確執が決定的となる(「毛利重就」吉川弘文館)。
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