徳山藩3代藩主とは? わかりやすく解説

徳山藩3代藩主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 15:39 UTC 版)

毛利元次」の記事における「徳山藩3代藩主」の解説

就隆は晩年十数年間江戸滞留して直接政務を執れず、元賢は幼少で封を継いでいたため、元次が藩主となった頃は高禄家臣権勢強くなっていた。そこで翌元禄4年1691年6月25日藩主として初め徳山入部した元次は、藩政改革として衣類定や家中諸法度といった法制整備するとともに藩主実権強化乗り出した手始めとして、同年7月28日萩藩からの付家老1300石を知行する次席家老神村隆忠を、妻が百姓家の裏山から木を5本盗んだという理由により閉門処し10月25日には知行のうち600石を召し上げ上で隆忠を隠居させた。これによって12月には神村家の一族追われるように徳山立ち退いて広島へと移り徳山藩次席家老神村家は断絶した同じく萩藩からの付家老1700石を知行する筆頭家老賢恒も元禄6年1693年12月隠居させられ徳山藩筆頭家老桂家断絶することとなる。元次が神村両家断絶させた理由として、『徳山略記』では、藩主となる以前の元次に対して同輩以下の扱いをしていたことや、毛利匡英擁立図ったことを挙げている。元次が藩主就任早々萩藩からの付家老の家を断絶させたことは、付家老通じて徳山藩へ意向反映させようとした萩藩対す拒絶姿勢を示すものであった。 元次は、かつて『塩鉄論』を読んで、この書が経国済民有益であると知り、かねて私淑していた京都伊藤仁斎の子伊藤東涯依頼して訓点加えて世に刊行したまた、宇都宮遯庵方直・長沼玄珍・林義端当代一流学者招き優遇した。藩政にも大い文教取り入れ、就隆以来制度整え徳山本町筋の町名定め城下町発展にも種々画策するところがあった。居館傍らには学問所兼ねた遊息の場として棲息堂を建て、また松屋の亭を設け、「松屋十八景」を選んだまた、自ら遠石八幡宮遠石町のことを叙して、『遠石記』を作り直に松屋十八景記』、長沼珍に徳山府記』を作らせ、更に関係の詩文集めて徳山名勝』及び『徳山雑吟』を刊行した折りしも、本家萩藩において藩主毛利吉広死去し、輝元系が断絶した際に、血筋的には最も吉広に近かったが、家臣永井氏養子となって毛利氏から外れていた時期があったために後継者候補から外され、秀元系の吉元が藩主となった。これ以前、元賢が死去した際に長府藩徳山藩主の後継者に秀元系の人物押し込もうとしていたこともあり、徳山藩と秀元系の長府藩萩藩との確執決定的となる(「毛利重就吉川弘文館)。

※この「徳山藩3代藩主」の解説は、「毛利元次」の解説の一部です。
「徳山藩3代藩主」を含む「毛利元次」の記事については、「毛利元次」の概要を参照ください。

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