徳山藩へ
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正保2年(1645年)5月3日、屋敷構えが悪いことを理由として下松から野上(後の徳山)への移転を幕府に願い出ることを秀就に依頼。慶安元年(1648年)6月15日、幕府から移転の許可が下りた。 同年11月19日、野上館邸の新築鍬初を執り行い、慶安2年(1649年)10月22日に落成。翌年の慶安3年(1650年)6月10日に初めて野上館邸へ入り、同年9月28日に野上を「徳山」と改称して、「徳山藩」が成立した。 承応元年(1652年)、徳山藩士に屋敷地を割り渡し、移転料を支給した。 万治元年(1658年)、時鐘を設置し、9月10日卯の刻(午前6時)に初めて鐘をついた。 延宝5年(1677年)7月、町方支配のために町方法度を定め、閏12月16日に藩札の発行を決定した。 延宝7年(1679年)8月8日、就隆は江戸三田の藩邸で死去した。享年78。跡を五男の元賢が後を継いだ。法号は発性院殿忽生本然大居士。墓所は山口県周南市舞車の聚福山大成寺。
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