旧徳山藩士への処罰とは? わかりやすく解説

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旧徳山藩士への処罰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:58 UTC 版)

万役山事件」の記事における「旧徳山藩士への処罰」の解説

第一の請願失敗終わったことを受けて里人は自ら萩へ赴き萩藩事情探ろう考えた8月5日徳山赴いて兄・隆芳の家族萩へ転居勧め、その付添い称して萩へ入った里人は約20日滞在し親戚友人会って情報収集したが、萩藩には徳山藩再興する意思見られなかったため、今度直接幕府訴えることを決めた9月25日一度徳山戻りその旨を隆芳に告げると、隆芳もこれに賛同し今後協力約束した。 しかし9月27日徳山藩家老であった隆芳、粟屋次興、福間次遥、粟屋隆室(丹宮)、鳥羽次長らは突然逼塞命じられ12月9日には、家老ありながら次に諫言尽くさず職責蔑ろにしたことを罪状として、隆芳は見島粟屋次興と粟屋隆室は相島福間次遥と鳥羽次長屋代島周防大島)へと流罪となる。さらに、徳山藩側用人であった古志次昌(宅右衛門)、澄治(巴)、合田疇、増田猪兵衛らも同様の罪状同日遠島処せられ、翌享保2年1717年2月6日には、事件発端となった右衛門獄舎斬首された。 兄の隆芳が流罪処せられた一方、元次へ諫言によって徳山藩追放されていた里人萩藩での評判悪くなく、里人登用して徳山藩改易後の始末一任しようとする動きもあった。しかし、里人京都青蓮院宮書道を学ぶと共に持病療養をしたいという口実で、京都への旅券萩藩申請したこの手続き手間取ったものの、享保2年1717年3月15日三田尻から海路出発途中で讃岐国金刀比羅神社参詣して徳山藩再興祈願し4月5日京都到着するや、直ち青蓮院宮訪ねて入門の硯式を行ったまた、伊勢神宮北野天満宮鞍馬寺比叡山などの社寺巡拝し徳山藩再興宿願成就祈願した

※この「旧徳山藩士への処罰」の解説は、「万役山事件」の解説の一部です。
「旧徳山藩士への処罰」を含む「万役山事件」の記事については、「万役山事件」の概要を参照ください。

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