旧徳山藩士への処罰
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第一の請願が失敗に終わったことを受けて、里人は自ら萩へ赴き萩藩の事情を探ろうと考えた。8月5日に徳山へ赴いて兄・隆芳の家族に萩への転居を勧め、その付添いと称して萩へ入った。里人は約20日間萩に滞在し、親戚や友人と会って情報を収集したが、萩藩には徳山藩を再興する意思が見られなかったため、今度は直接幕府に訴えることを決めた。9月25日に一度徳山に戻り、その旨を隆芳に告げると、隆芳もこれに賛同し、今後の協力を約束した。 しかし9月27日、徳山藩の家老であった隆芳、粟屋次興、福間次遥、粟屋隆室(丹宮)、鳥羽次長らは突然逼塞を命じられ、12月9日には、家老でありながら元次に諫言を尽くさず職責を蔑ろにしたことを罪状として、隆芳は見島、粟屋次興と粟屋隆室は相島、福間次遥と鳥羽次長は屋代島(周防大島)へと流罪となる。さらに、徳山藩の側用人であった古志次昌(宅右衛門)、桂澄治(巴)、合田疇、増田猪兵衛らも同様の罪状で同日に遠島に処せられ、翌享保2年(1717年)2月6日には、事件の発端となった里右衛門が萩の獄舎で斬首された。 兄の隆芳が流罪に処せられた一方、元次への諫言によって徳山藩を追放されていた里人は萩藩での評判も悪くなく、里人を登用して徳山藩改易後の始末を一任しようとする動きもあった。しかし、里人は京都の青蓮院宮で書道を学ぶと共に持病の療養をしたいという口実で、京都への旅券を萩藩へ申請した。この手続きに手間取ったものの、享保2年(1717年)3月15日に三田尻から海路で出発。途中で讃岐国の金刀比羅神社に参詣して徳山藩再興を祈願し、4月5日に京都へ到着するや、直ちに青蓮院宮を訪ねて入門の硯式を行った。また、伊勢神宮、北野天満宮、鞍馬寺、比叡山などの社寺を巡拝し、徳山藩再興の宿願成就を祈願した。
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