生麦事件の解決交渉とは? わかりやすく解説

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生麦事件の解決交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 19:36 UTC 版)

ジョン・ニール」の記事における「生麦事件の解決交渉」の解説

9月14日文久2年8月21日)の生麦事件発生直後横浜居留外国人たちは、横浜停泊中の英・仏軍艦から陸戦隊出し保土ヶ谷宿泊している島津久光一行襲撃する計画立てたが、ニールはこれを認めなかった。フランス公使ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールも、事件当日横浜到着したばかりのオーガスタス・レオポルド・キューパー提督ニール同意したため、襲撃計画中止された。 12月4日文久2年10月13日)、ニール江戸城登城し第二次東禅寺事件賠償交渉開始した生麦事件に関する本国からの訓令はまだ届いていなかった)。第二次東禅寺事件に関しては、本国外相ラッセルからの支持に基づき1万ポンド(4メキシコドル、31100両)の賠償金要求した幕府はこれに対す即答避けたニールその後10日江戸滞在したが、幕府からの返答得られなかったため、横浜戻ったその1週間後に、幕府3000ドルなら支払うと回答したが、両者の差は大きく合意にはいたらなかった。 1863年1月28日文久2年12月9日)、外国奉行竹本正雅ニール訪れ御殿山建設中の新公使館使用中止(この3日後に高杉晋作等による焼き討ちにあった)を依頼するとともに将軍天皇説得失敗した場合には内乱となる可能性があること、その場合には英国幕府援助してくれるかを尋ねたニール幕府への精神的支援として可能な限り艦隊横浜集結させる回答し実際にキューパーにこれを依頼した3月4日文久3年1月15日)、生麦事件対す12月24日付け本国からの要求届いた内容幕府に対しては公式な謝罪賠償金10万ポンド支払い薩摩に対して犯人処刑妻子養育料として2万5千ポンド支払い要求するものであった訓令また、もし幕府がこれを拒否した場合は「船舶捕獲または海上封鎖、あるいはその両者」を含む適切と思われる手段実施求め薩摩拒否した場合には艦隊率いて鹿児島向かい、「港の封鎖砲撃蒸気船拿捕」など最適な手段を取ることを求めていた。 3月22日2月4日)、一旦香港戻っていたキューパーが3隻の軍艦率いて横浜到着した。さらに後続の艦が到着し以前から横浜停泊してた艦と合わせる12隻の大艦隊が横浜集結した。この艦隊はもともとは「幕府への精神的支持」のためのものであったが、生麦事件交渉にあたり幕府への大きな圧力となった4月6日2月19日)、ニール日本語通訳官のユースデンを江戸送り東禅寺事件賠償再度要求するとともに生麦事件に関する要求幕府伝え20日間の猶予期間与えたこの間に、幕府英国の間に戦闘開始されるではないかとの噂が流れ横浜日本人恐慌態となり、多く横浜脱出した。 ところが、将軍徳川家茂以下主要な幕閣京都出向いており、江戸留守政府このような重大な決定下せず、4月24日3月7日)さらに30日猶予求めてきた。ニール15日猶予認めたが、5月2日3月15日)、幕府がさらに15日間の猶予求めてきたため、ニール信頼できる高官派遣要請した。早速外国奉行竹本正雅竹本正明が横浜派遣され5月4日5日両日ニール、デュシェーヌ・ド・ベルクール、キューパーフランスバンジャマン・ジョレス提督加わった会議開かれたフランス加わったのは、これが幕府英国の関係にとどまらず条約締結国との問題であるとの理屈であったニールとデュシェーヌ・ド・ベルクールはここで、幕府賠償金支払い、かつ条約順守姿勢見せた場合英仏両国幕府軍事的に援助する申し出た。これに対し竹本正雅は、幕府賠償金金額には合意するが、その支払い方法に関して意見があると述べた結局京都将軍合意取り付けるためとの理由で、5月23日4月6日)が最終期限とされた。 期限から2日遅れた5月25日4月8日)、竹本横浜戻り軍事援助申し出を断ると同時に一両日中賠償金の支払い方法決定することに合意した。ところが竹本は「病気になってしまい、代わりに6月7日4月21日になって外国奉行菊池隆吉ニール訪れ支払い方法交渉入った翌日賠償金総額44ドル11ポンド)のうち、14ドル10日以内支払い残り30ドル5万ドルずつ毎週支払うことで合意した。しかし、ニールはこの時点でも実際に賠償金支払われるか、軍事行動を取る必要があるかは五分五分見ていた。 その後6月14日4月28日)に、6月18日5月3日)を第一回目の支払日とすることが文書確認された。ところが少し遡る6月6日4月20日)、京都徳川家茂6月25日5月10日をもって攘夷実行する孝明天皇約束させられていたのであるこのため支払い当日の朝になって幕府賠償金支払い中止し老中小笠原長行6月20日5月5日)に出向く旨を伝えてきた。当然のことながら、ニール激怒し12時間の猶予与えたものの、全額一括払い条件として付け加えた解決目前にして事態急展開し、結局6月20日ニール幕府対す軍事行動キューパー提督委ねた。 まさに戦争直前の状態となったが、幕府フランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールとアメリカ公使ロバート・プルイン相談し小笠原独断によって、6月24日5月9日)に賠償金44ドル一括して支払われた。こうして、幕府対す賠償要求から80日、ニール危機的状況に陥りながらも、問題解決成功した

※この「生麦事件の解決交渉」の解説は、「ジョン・ニール」の解説の一部です。
「生麦事件の解決交渉」を含む「ジョン・ニール」の記事については、「ジョン・ニール」の概要を参照ください。

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