生麦事件の発生と根岸競馬場の開設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 18:19 UTC 版)
「横浜競馬場」の記事における「生麦事件の発生と根岸競馬場の開設」の解説
日本の開国により尊王攘夷運動が活発化するなど、幕末の世相は動乱期に入っていた。そんな中の1862年(文久2年)、薩摩藩主の父島津久光の行列の前を馬に乗りながら通りがかったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する生麦事件が発生。これをきっかけとして居留外国人の間で「人が来ない安全な場所で競馬を開きたい」との声が高まっていったほか、諸外国との緊張も高まり、幕府と外国人団で交渉が続けられ、1864年(元治元年)にはイギリス・アメリカ・フランス・オランダの4か国と幕府の間で横浜居留地の整備改良を目的とした「横浜居留地覚書」が締結された。ところが、日本人町の海岸通りを居留地に編入する条項が含まれているなど、内容は幕府側に不利なものとなっていた。この覚書では生麦事件の賠償の一環として、居留地の背後にあった沼地(現在の中区扇町から松影町付近)を幕府の費用負担で埋め立てて競馬場を建設し、競馬場運営を居留外国人による委員会に委託することが定められており、幕府は改正交渉を続けていたが、1866年(慶応2年)に発生した「豚屋火事」をきっかけに一気に進展。4か国公使は幕府の費用負担で東海道から離れた丘の上に位置する「根岸」に競馬場を建設し、借地料を100坪10ドルとすれば、横浜居留地覚書の第1条を破棄することを確約。こうして1866年(慶応2年)にイギリス駐屯軍将校らの設計・監督によって日本初の洋式競馬場「根岸競馬場」が開設され、翌1867年(慶応3年)から競馬が開催された。 当初は居留外国人(主にイギリス人)によって結成された「横濱レース倶樂部」が主催していたが、内部対立や外国人居留地の経済力が衰えたことによる財政難に加え、日本産馬の確保などで苦境に立たされ、1880年(明治13年)には賃貸料の支払いが不可能になったことから賃貸契約を破棄し、居留外国人のみだった入会資格を日本人にも認め、日本レース・クラブが設立された。これは競馬場を欧化政策の舞台として利用したい明治政府側と、強固な財政基盤を求めていた旧クラブ側の思惑が一致した結果の産物だった。こうして結成された「日本レース・クラブ」の名誉会員には宮家(皇室)、正会員には西郷従道・松方正義・伊藤博文などといった明治政府の要人が名を連ね、競走馬を所有して競馬に参加していた。
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